グレートブリテン王国は、1707年合同法によって、イングランド王国スコットランド王国が合併し、連合王国として建国された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/合同法_(1707年)#:~:text=1707年合同法(1707,することとした法%E3%80%82

https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Scotland


スチュアート朝(同君連合)

ウィリアム1世らイングランド諸王はノルマン・コンクエストの延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、スコットランドとイングランドは戦争状態が続いていた。

エドワード1世の征服により1296年イングランドに屈服して、王座のシンボルであったスクーンの石を奪われた。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレスらが反乱をおこして独立戦争がおこった。この戦争は曲折をへて1318年には実質的独立を達成し、1328年になってイングランドとの和約も成立した。

イングランドのバラ戦争を収拾したテューダー朝ヘンリ7世はスコットランドとの和平を図り、娘のマーガレットをスコットランド国王ジェームズ4世の妃として、イングランド王の継承権を得た。

ジェームズ4世とマーガレットの孫にあたるのがメアリ=ステュアートであり、さらにその子のジェームズ6世が1603年にチューダー朝が断絶したことで、イングランドの王位も継承する。

母メアリーと異なり、プロテスタントとして育てられたジェームズ六世はイングランド国王に迎えられてジェームズ1世となり、イングランドのステュアート朝が始まった。

ジェームズ一世は国王大権をもって「グレートブリテン国王」を呼称し、王国合同による「グレートブリテン王国」を目指した。

しかし、イングランド議会は合同の結果スコットランドのような絶対君主制がイングランドに強いられることを憂慮したため、法的には両王位は合同しておらず、あくまでも1人の人物が2つの王位を継承するという人的同君連合にすぎなかった。


スコットランドの衰退

スチュアート朝の時代は、そしてジャコバイト反乱にいたる近世スコットランドの変遷は、スコットランド文化を失っていく暗い時代とされる。

スコットランドは独自の王を失い、つぎに独自の議会を奪われ、発展していたイングランド、大陸ヨーロッパ文化に吸収される時代であった。

エディンバラからウェストミンスタに移ったステュアート家の王たちは、ほとんどスコットランドに戻らず、スコットランドには担当国務大臣をおき行政にあたった。

ジェームズ1世と息子チャールズ1世は「グレートブリテン王国」実現の準備としてイングランド国教会とスコットランド国教会の合同を目指した。

しかし、両教会は組織も教義も異なる点が多く、スコットランド側は組織では長老制を採用し、教義ではカルヴァン主義を採用していたため、スコットランド側ではイングランド国教会の多くの慣習をカトリックと大同小異であるとみていた。


イングランド内戦

https://en.wikipedia.org/wiki/Scotland_in_the_Wars_of_the_Three_Kingdoms

https://ja.wikipedia.org/wiki/主教戦争

その結果、監督制教会のイングランドと長老制のスコットランドは教義をめぐって衝突し、主教戦争(1639〜1941年)からイングランド内戦(1642年〜1651年)に発展した。

主教戦争は、チャールズ1世スコットランド教会(カーク)の宗教改革に反対したスコットランド議会(カルヴァン派、長老会)の国民盟約による暴動に対して、イングランド軍を派遣したが鎮圧できず、スコットランド国民盟約派がカルヴァン主義によるスコットランド支配を確立したが、アイルランド(カトリック)とイングランドを不安定にした。

チャールズはスコットランドに対する差別的な法律を廃止する見返りにアイルランドのカトリック教徒の軍隊を立ち上げることを検討したため、スコットランド国民盟約派は、プロテスタント入植者に軍事支援を提供すると脅した。

1641年のアイルランド反乱によるプロテスタント入植者の虐殺が発生し、イングランド議会は国王大権の制限をめぐって王党派と議会派に分裂、チャールズ1世率いる国王軍はアイルランド・カトリック同盟と、議会軍はスコットランド国民盟約派の支持を各々とりつけ、三王国を巻き込む第一次イングランド内戦(1642年 – 1646年)が勃発した。

1646年、イングランド議会派、スコットランド国民盟約軍側が勝利したが、スコットランドはイングランドとは異なり、戦争中、すべてのスコットランド人が君主制の制度が神に命じられたことに同意していた。

そして国民盟約軍が第二次イングランド内戦でチャールズ1世の復活を支持し、その後第三次に彼の息子を支持したことにつながる。

1648年、第一次イングランド内戦に協力したスコットランドは、議会派が長老制を徹底しないことに不満を持っていた為、チャールズ1世と国王派はスコットランドと結託して再度戦いを挑んだ(第二次イングランド内戦)。しかし、半年であっけなく鎮圧された。


スチュアート朝崩壊(清教徒革命)

1648年12月6日、独立派クロムウェルは、『プライドのパージ』とよばれる軍事クーデターで国王との和解を諦めていない長老派を追い出し、残った五十数名の議員のみからなる下院(ランプ議会)を承認した。

1649年1月から国王チャールズ1世の裁判を開始し、27日に死刑の判決が下り、30日にチャールズ1世は処刑され、スチュアート朝は崩壊、イングランド共和国1649年 – 1660年)が成立する。(清教徒革命)


1649年2月5日、革命に反対するスコットランドでは、チャールズ1世の処刑をうけフランス、オランダに亡命していたチャールズ2世がスコットランド王を宣言、6月にスコットランドに上陸した。

1651年1月1日チャールズ2世は、スクーンで正式に戴冠式を挙げたが、スコットランドへ侵攻してきたクロムウェル軍に敗れ(第三次イングランド内戦、ウスターの戦い)、再び大陸に亡命した。

1654年4月12日に「護国卿によるイングランドおよびスコットランドの合同布告」が発され、イングランド、スコットランド及びアイルランド共和国が成立し、スコットランドはイングランド共和国に併合された。

共和政イングランドが施行した航海条例(1651年)はスコットランド経済に打撃を与えた。この条例によって、スコットランドも外国とみなされ、ロンドンや植民地の港から締め出されたのである。スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮にあえぐようになった。


名誉革命

1688年名誉革命は、議会のトーリ、ホィッグの両党は一致して、メアリと夫のオランダ総督ウィレム(英語読みでオレンジ公ウィリアム)を招聘し、ジェームズは妻子とともにフランスに亡命した。スコットランドにとってはイングランド議会が「勝手に」王をすげかえる暴挙であった。

スコットランド議会は安全保障法(1704年)によって独自に王を立てる権利を有するという宣言を発した。これに対してイングランドは外国人法(1705年)で応酬した。すなわち、合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、ヨーロッパとの交易も制限するとしたのである。

人口で5倍、経済力で38倍の相手に対抗できたのはここまでであった。


ジャコバイトの拠点・ハイランド

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ジャコバイトの最大の支持基盤がスコットランド、特にハイランド地方であった。

ローランド地方で始まったスコットランドでの宗教改革は、ゲール語圏であるハイランド地方では当初は部分的に成功しただけであった。

カトリック教会は、文化的にも民族的にも関係の深いアイルランド系のフランシスコ会伝道師がミサのために定期的にハイランド地方を訪れていたこともあって、ハイランド地方の大部分で勢力を保っていた。

もともとスコットランドにはイングランドとの根深い対立意識があったばかりでなく、ステュアート家がスコットランド出身ということもあって、スコットランド人はジェームズに同情的であった。

特に1707年に批准されたイングランド・スコットランド合同法は、歴史的・宗教的対立を抑えこんで経済的利益を優先させたものであったが、すぐにはスコットランド側が期待していたほどの利益をもたらさず、イングランドに対する不満は高まっていた。1715年の反乱ではマー伯ジョン・アースキンという指導者を得て、スコットランドのほとんどが反乱軍の手に落ちた。

ハイランダーの強いカトリシズムはプロテスタントであるイングランド人に対する歴史的な反感へとつながった。これは、ローランド地方のスコットランド人のほとんどがプロテスタントに改宗し、イングランドと連合してグレートブリテン王国を形成するのに積極的だったのとは対照的である。

一方アイルランドでは、宗教的側面からジェームズが支持された。

清教徒革命以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかった。ジェームズ2世からアイルランドの統治を任されたティアコネル伯リチャード・タルボットは、カトリック支配の浸透とジャコバイトの拡大に尽くしてアイルランドの大半を制圧、アイルランドをジャコバイトの拠点に変えていった。


1707年合同法

イングランド議会が制定した1706年スコットランド合同法(Union with Scotland Act 1706)とスコットランド議会英語版)が制定した1707年イングランド合同法(Union with England Act 1707)という2つの法律で構成されている。

1706年7月22日合同条約英語版)が締結され、1707年に両国で批准されたことで、1707年合同法と呼ばれている。


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