カーナティック戦争(インド植民地)
オーストリア継承戦争と七年戦争と連動して、イギリス領インドの拠点マドラスと、フランス領インドの拠点ポンディシェリーとの間で3次にわたってカルナータカ地方で繰り広げられ、1763年2月にパリ条約締結をもって終了した。
第1次カーナティック戦争(1744年 – 1748年)
1707年、インドを支配するムガル帝国は、イスラム教とヒンズー教徒の分裂状態に陥ったことから、イギリス東インド会社はマドラスを拠点に、フランス東インド会社はポンディシェリーを拠点に、ともに勢力をのばして争った。
1744年にカルナータカ地方の沿海で、イギリスがフランスの船を捕えたため、第1次カーナティック戦争(カルナータカ戦争)が勃発した。この第1次戦争では、現地勢力はあまり関与しなかった
イギリスとフランスは南インドの地で4年にわたり争い、1748年10月、オーストリア継承戦争が終わると、アーヘンの和約が結ばれ、フランスは占領していたマドラスを返還し、第1次カーナティック戦争も終結した。
第2次カーナティック戦争(1749年 – 1754年)
フランスとギリスはデカンのニザーム王国の後継者争いに介入した。フランスは戦争の長期化を避けるため、1754年10月に和議を結んで第2次カーナティック戦争は終結した。
第3次カーナティック戦争(1758年 – 1763年)
1756年8月、ヨーロッパで七年戦争が勃発した。
1757年10月にプラッシーの戦いが起こり、イギリスはフランスの東インド会社の支援するベンガル太守軍に勝利し、ベンガル地方はイギリスの勢力下に入っていた。
1758年に南インドでも英仏間による第3次カーナティック戦争が勃発した。
イギリスは大規模な軍艦建造計画の結果、フランスの約50隻に対して、イギリスは約350隻の艦隊を派遣し制海権を握ると、1760年1月22日にヴァンディヴァッシュの戦いでフランス軍に決定的な勝利をおさめた。
イギリスはフランスのポンディシェリーを兵糧攻めにして、1761年1月16日に占領し、1763年2月にパリ条約締結をもって戦争は終了した。
フランスはポンディシェリーを返還されたが、事実上インドから撤退した。