スペイン王国

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スペイン王国

https://ja.wikipedia.org/wiki/スペインの歴史

https://es.wikipedia.org/wiki/Historia_de_España

https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-069.html

スペイン王国は、イベリア半島の5分の4を占め、ポルトガルを除く部分を支配する国。

ローマの属州ヒスパニア(ラテン語読み)

現地の言葉でエスパーニャ(スペイン語読み)

日本ではイスパニア、現在では英語読みであるスペイン


古代

イベリア半島は、ポエニ戦争(紀元前146年)のあと共和政ローマの支配下に置かれていた。

415年、南下してきた西ゴート族(ゲルマン人)によって西ゴート王国が建国された(415年 – 711年)。

500年頃の西ゴート王国の領域

711年、イスラム帝国勢力のウマイヤ朝は、ベルベル人を率いアフリカ大陸からジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ上陸し、西ゴート王国を滅ぼした。カンタブリア山脈ピレネー山脈付近を除くイベリア半島の大部分が716年よりウマイヤ朝の属州となった(アル=アンダルス)。

イスラム王朝の拡大  ムハンマド622年632年
  正統カリフ時代632年661年
  ウマイヤ朝661年750年

ウマイヤ朝は750年に滅亡、1031年に後ウマイヤ朝も滅亡し、セビリア王国トレド王国サラゴサ王国グラナダ王国バレンシア王国などに分立した(第一次タイファ時代)。

1085年、イベリア半島の中心部トレド王国が、カトリック勢力のカスティーリャ王国に征服される(レコンキスタ)。この後、マグリブムラービト朝アンダルシア(アル=アンダルス)のタイファ(小王国)を統制下においた。

13世紀、イベリア半島ではカトリック勢力が巻き返し(レコンキスタ)をはかり、北アフリカのムワッヒド朝によってムラービト朝は滅亡、イベリア半島は小王国に分裂した(第二次タイファ時代)。


レコンキスタ

718年アストゥリアス王国の建国)に始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる。

イスラーム勢力の後退914年1492年) イスラーム勢力はイベリア半島の南に押しやられる

732年、トゥール・ポワティエ間の戦いフランク王国宮宰カール・マルテルがムスリム勢力のピレネー以北への進出を阻止した。

785年、ルートヴィヒ(ルイ)1世に率いられたフランク王国は地中海側から侵攻、801年バルセロナを攻略、865年バルセロナ伯を置いて、カタルーニャを統治させた。

914年アストゥリアス王国は、ガルシア1世の代にレオンへ遷都しレオン王国へ改名、東部地域にカスティーリャ伯領を設置した。

1031年の後ウマイヤ朝滅亡後、ナバラ王国、サンチョ・ガルセス3世レオン王国を攻めて一挙に勢力を拡大、カスティーリャナバラ王国に併合した。1035年、ガルセス3世の死亡後は分割相続され、ナバラ王国は長男のガルシア・サンチェス3世カスティーリャは次男のフェルナンド1世、ソブラルベ伯領は三男のゴンサロ、アラゴンは庶子のラミロ1世に与えられた。

この時、カスティーリャ、アラゴンは王号を称し、それぞれカスティーリャ王国アラゴン王国となった。

1037年フェルナンド1世レオン王国を併合し、カスティーリャ・レオン連合王国を建国した。

フェルナンド1世を分割相続した兄弟は遺領を独占するために争い始めた。

1031年のイベリア半島の状況

1072年、レオン王国アルフォンソ6世は、カスティーリャ王サンチョ2世にレオンを征服されるが、同年サンチョ2世が暗殺されると、そのままカスティーリャ・レオン連合王国を継承した。

1076年ナバラ王国サンチョ・ガルセス4世が暗殺されると、アラゴン王国サンチョ・ラミレスがナバラ王となった。

1085年、カスティーリャ・レオン連合王国のアルフォンソ6世は、タイファトレド王国を陥落させると、続く1086年にはバレンシアを制圧し、「2つの宗教の皇帝」を自称した。

1137年、アラゴン王ラミロ2世は娘のペトロニラに王位を譲り、カタルーニャの君主であるバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚によって、カタルーニャ=アラゴン連合王国が成立した。

1230年レオン王国ポルトガル王国は協同してイベリア南西部に侵攻、アラゴン王国1238年バレンシアを制圧し、1248年にグラナダ以東は、全てキリスト教勢力のものとなり、カスティーリャとアラゴンは分割統治に関する協定(アルミスラ条約)を結んだ。カスティーリャはさらに南下し、1251年までにジブラルタル海峡に達し、イベリア半島は事実上キリスト教国家の支配となる。

イベリア半島最後のムスリム勢力ナスル朝1235年グラナダを攻略、グラナダはキリスト教徒に追われた多くのムスリムやユダヤ人が移り住み、彼らの貢献によって経済的にも文化的にも繁栄した。ナスル朝はカスティーリャ王国とアラゴン王国の対立を外交上利用してうまく立ち回り、イベリアにおける最後のムスリム勢力として1492年まで存続した。

1469年、アラゴン王太子フェルナンド(後のフェルナンド2世)がカスティーリャ王女イサベル(後のイサベル1世)と結婚し、1479年にはアラゴン王国カスティーリャ=レオン王国の同君連合が形成され、スペイン帝国が成立する。


アブスブルゴ朝(スペイン・ハプスブルク朝)の成立

アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世は、その娘フアナ神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップと結婚させた。

長男のカルロス(後のカール5世 、神聖ローマ皇帝)は、フェルナンド2世の死後、17歳で1516年にブリュッセルでスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王への即位を宣言、1519年、フランスのフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝に選出され、カール5世となった。

つまり、オーストリア・ハプスブルク家(本家)第3代神聖ローマ帝国皇帝(カール5世、在位:1519年 – 1556年)であり、同時にハプスブルク家(分家)初代スペイン国王カルロス1世として、アブスブルゴ朝(スペイン・ハプスブルク朝)が成立する。

これらの歴史的事実がスペインの将来にとってどういう価値を持つかという点を取り上げるだけでいいだろう。ひとつは、スペインの政治が神聖ローマ帝国の理念と結びついたことであり、もうひとつは、スペインの力が分散され、スペインが経済的に破綻したことである。

<ピエール=ヴィラール/藤田一成訳『スペイン史』1992 白水社 文庫クセジュ p.39>

イベリア半島諸国家の停滞

16世紀初めにも、スペインは極めて貧しい国だった。

国富論第一編第十一章

1479年のアラゴン王国カスティーリャ=レオン王国の同君連合は、現代のスペインとスペイン帝国の基礎を築いたが、スペインの各王国は社会的、政治的、法的、通貨と言語で別々の国のままだった。

アラゴン王国カスティーリャ=レオン王国の同君連合であり続け、政治的に統一した王国の時代はなかった。

グラナダはキリスト教徒に追われた多くのムスリムやユダヤ人が移り住み、彼らの貢献によって経済的にも文化的にも繁栄していた。

1492年、スペインのユダヤ人はカトリックに改宗するか追放に直面するかの選択を余儀なくされた。その結果、20万人ものユダヤ人がカスティーリャとアラゴンから追放された。その後、1497年にアラゴンのシチリアポルトガルで1493年に追放が続いた。

1519年、カルロス1世の時代まで、イベリア半島はスペインはイスラム朝による征服、レコンキスタによる分割統治と戦乱の時代が断続的に続いていた。

一方、イギリス(イングランド)とフランスは、1066年ノルマン・コンクエスト以降、イングランド統一王朝(プランタジネット朝、チューダー朝)、フランス統一王朝(カペー朝、ヴァロア朝)という統一国家として発展してきた。

スペインは16世紀に入ってようやく、スペイン・ハプスブルク家によって統一王朝が形成され、それ以降、大航海時代を経て、アメリカ大陸植民地帝国(スペイン帝国)として帝国支配の時代を迎える。


スペイン帝国の実態

カルロス1世の時代(1519年〜1556年)になると、「アメリカ大陸の発見」によって、1521年アステカ王国を、1532年にはインカ帝国を滅ぼし、アメリカ大陸はそのほとんどがスペインの植民地となって国家としても隆盛を極めたと言われる。

しかし、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は、人生のほとんどを戦争に費やした。プロテスタントの宗教改革から神聖ローマ帝国のカトリックを守るための戦争、オスマン帝国のイスラム教徒の領域拡大への対抗、そしてフランスとの一連の戦争で、彼自身の王室の収入を使い果たした。

そして、ドイツとイタリアの銀行家からお金を借り、その返済のために低地諸国(ネーデルランド)の初期の資本主義経済と、メキシコとペルーからスペインへの貴金属、特に銀の流れに依存することによって、広範なインフレを引き起こしている。

結局、16世紀前半においてスペインは、国家として実質的に発展を遂げているとは必ずしもいうことはできない。


フェリペ2世(スペイン帝国#2)の時代

スペイン帝国スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。

ウィキペディア日本語

フィリップ2世の下で、スペインは影響力と権力の頂点に達し、時にはスペインの黄金時代と呼ばれ、当時ヨーロッパ人に知られていたすべての大陸の領土を支配しました。1557年、1560年、1569年、175年、1596年に州の債務不履行を見て、高い債務レバレッジ制度を率いた。この政策は、1581年にオランダ共和国を創設した独立宣言の原因の一部でした。

その巨大な支配にもかかわらず、スペイン帝国の人口は少なく、その収入は限られたものだった(例えば、はるかに人口の多いフランスとは対照的である)。フィリップは増税でいくつもの困難に直面しており、国内の経済は主に地元の領主の農業生産によって支えられていた。彼は帝国の植民地の資源に課税し、搾取することによってのみ、軍事作戦に資金を調達することができました。新世界からの収入の流れは、彼の過激な外交政策にとって不可欠であったが、国内経済を発展させることはできず国家財務は何度か破産に直面した。

Wikipedia(英語版)

彼の治世は、大西洋と太平洋を横断する世界的な探検と領土拡大によって特徴付けられました。スペイン君主制はヨーロッパで最初の権力となり、スペイン帝国はピークに達しました。歴史上初めて、帝国はすべての居住大陸の領土を統合した。

彼の治世中、王立財務省は3回(1557年、1575年、1596年)破産を申請しましたが、実際には支払いの停止であり、現代経済に応じて技術的に非常によく詳述されていましたが、当時は完全に知られていません。フィリップ2世は父親から約2000万ダカットの借金を相続し、この借金は国家予算5年分だった。1557年、王が権力を握る直前に、帝国は破産を宣言し債務の支払いを停止しなければならなかった。しかし、フィリップ2世が権力を握った直後に帝国の収入は倍増し、カスティーリャの財政負担は、アメリカからの富が歴史的価値に達したため、彼の治世の終わりには国家予算4年分になっていた。

帝国の財政収入は主に地元カスティーリャに支えられ、オランダとジェノヴァの銀行家に依存していました。一方、アメリカからの収入も重要であり、帝国の財政収入の年間10%から20%を占めていた。

オランダはカスティーリャウールの主な市場であり、オランダですでに開かれた紛争のために、ウールルートが中断され、1575年にカスティーリャ経済に不況をもたらしました。

1577年、ジェノヴァの銀行家と資金融資を続けることで合意に達したが、カスティーリャにとって非常に高い金利で不況を悪化させた。これは70年または80年に達する可能性のある長期債務整理で構成され、利息は7%、アメリカ大陸で産出される金属(銀)を担保にしていた。

1576年から1588年の間に、フェリペはシモン・ルイスの金融仲介によって、為替手形で支払い回収し、融資を継続させた。

1567年にローマの教皇が歴史的にスペイン王国に与えた3つの恵みの一部である10分の1税を王室に収めることを他の教区にも広げ、教会から帝国財政収入の最大20%を集めることができたが、教会の批判を受けた。

1590年、6年間は年間800万ダカットで構成され、新しい海軍の建設と軍事政策に費やされた。これはカスティーリャの都市を台無しにし、停滞していた工業化が進まず壊滅的になった。1597年、3回目の破産が宣言されたが、帝国は巨大で偏差の当てのない負債を引き起こしたが、外交政策の継続を可能にした。

フィリップ2世は危機の危機に瀕してスペインを去った。当時のスペイン人の生活は残忍なインフレに耐えました。穀物の価格は世紀の最後の4年間で50%上昇しました。生産者と消費者の両方の財政負担は過剰でした。インフレと税負担により、低い負担金で貴族の称号が取得できたため、すぐにビジネス、商人、起業家がますます少なくなりました。

https://es.wikipedia.org/wiki/Felipe_II_de_España

オランダの独立

1581年にネーデルラント北部諸州はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出した(これをもってネーデルラント(オランダ)連邦共和国の独立とする見方もある)。


無敵艦隊の敗北

1588年、フェリペ2世は北部諸州を支援しているイングランドを叩くために無敵艦隊を派遣したが、アルマダの海戦で敗北した。


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