昔の国語の方がイメージが湧く件

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昔の国語の方がイメージが湧く件

マルクスの資本論第一巻第一冊に次の件がある。

「商品は最初、一の二重物として、即ち使用価値及び交換価値として、我々の目に映じた。」高畠素之訳、改造社版 1928年

「最初に、商品は、二面的なものとして、すなわち使用価値及び交換価値として、我々の前に現れた。」新日本出版社 現代版

私が気になったのは、最後の表現「我々の目に映(えい)じた」と「現(あらわ)れた」のニュアンスの違い。

「映じた」という表現だと、我々の目に入ったものを、我々が「主観的に」認知したという印象を与える。

一方で「現れる」だと、その商品自体が、「客観的」に出現して、誰もが同じように認知できるような感じを受ける表現に思えるのだ。

この文章は、「価値」という、資本論の中では極めて抽象的な概念を扱っているので、私的には古い表現ではあるが「映じた」の方がイメージに合う。

現代的に言えば「我々の目に映った」と訳する方がいいように思う。

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