ニッコロ・マキャヴェッリ

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ニッコロ・マキャヴェッリ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ニッコロ・マキャヴェッリ

1469年5月3日 – 1527年6月21日、イタリアルネサンス期の政治思想家フィレンツェ共和国外交官

メディチ家追放(1494年)、サヴォナローラの神政とその失脚・処刑(1498年)等、フィレンツェ共和国の激動期に育つ。

理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治宗教道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。


ピサ戦役

https://ja.wikipedia.org/wiki/ピサ

現代のイタリア共和国トスカーナ州にある都市である。

ピサの位置

ピサはかつて、ピサ共和国11世紀1406年)としてイタリアの四大海洋共和国イタリア語版英語版)の一角に数えられる海洋経済大国だった。

1406年、を持たないフィレンツェ共和国にとっては、ピサの港が自由につかえることが必要であり、ジェノヴァ共和国との戦争で弱体化したピサ共和国を併合した。

しかし15世紀、ピサの港は、堆積によって海から切り離されたことで、海への行き来がさらに困難になった。

1494年にフランス王シャルル8世はナポリ王位を請求してイタリア諸国へ侵攻、フィレンツェ共和国は敗退し、ピサは自治権をつかんだ。

マキャベリは「もしも、フィレンツェが自由でありたいと望めば、ピサは再領有は実現されるべきである」と述べ、フランス王ルイ12世と同盟を結ぶ。

しかし、1500年のピサ戦役では、マキャヴェッリはフィレンツェ軍顧問の副官として参加したが、フランスからの援軍はいうことを聞かず、ピサ市内への侵攻を拒否、ピサ領有は失敗に終わる。


君主論』の執筆

マキャヴェッリは自らの経験と考察から、国の根源は傭兵に拠らない軍事力にあると確信し、国民軍の創設を計画し、メディチ家のフィレンツェ復権を後押しするハプスブルク家スペインに対抗した。

1513年2月、ジョヴァンニ・デ・メディチ(後のローマ教皇レオ十世)新政権下起こったボスコリ事件に加わった容疑で、マキャヴェッリは逮捕されるが、3月11日にジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選出されたことにより、大赦で釈放された。

その後の隠遁生活のなかで、『君主論』は1513年 – 1514年に執筆された。

「君主論」は、1516年に死去したジュリアーノ・デ・メディチの後任のロレンツォ・デ・メディチとの謁見の場で初めて献上され、1532年に刊行された。

全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時において新たな点であった。

当時、イタリアは多くの小国に分裂し、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦うイタリア戦争(1494年から1559年)で混乱の中にあった。

マキャベリは、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じ、メディチ家への期待を述べた。


復帰

1520年、マキャヴェッリ理論の賛同者によって、反メディチの陰謀オルティ・オリチェラーリ事件イタリア語版)が発生した。

しかし、ロレンツォの後任者ジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)は、マキャヴェッリの事件への関与を一切問うことをせず、メディチ家政権下で顧問的に用いられるようになった


晩年

1527年5月6日に発生したローマ略奪でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャヴェッリもまた政権から追放された。

一貫した共和制支持派からは「メディチ家に擦り寄った裏切り者」、ある者からは「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と非難され、失意のうちに病を得て翌月に急死した。


軍事理論

マキャヴェッリの軍事理論は『君主論』『政略論』『戦術論』で述べられているが、現代の軍事理論に基本となるような、きわめて現実的・合理的な理論である。

1 軍事力

君主は法律を整備するとともに軍事力を強化すること。そのためには常備軍を編制し、騎兵よりも歩兵が有効であること。

2 軍事訓練

軍事訓練を、錬度に合わせて段階的に実施すること

第1段階:整列の動作の訓練

第2段階:整列行進の動作の訓練

第3段階:戦闘訓練

第4段階:信号や命令伝達の教育

3 司令官の統率能力

軍隊の団結には司令官の統率能力が最も重要であること。

統率能力は血筋や権威ではなく、勇敢や善行によって強化される。また演説の能力も求められる。

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