まがい物の大学教育
教師が常識のある人物であれば、学生に抗議しているときに、講義内容がまったく無意味か、無意味に近いものだと自覚するようなものなら、心穏やかでないはずだ。
このため、何回かの講義を義務付けられていれば、他の利害がなくてもこれらの動機だけで、ある程度まともな講義をするために努力するとも思える。
だが、いくつもの便利方法があるので、教師の熱意を刺激する要因の力が弱まっている。
教師は自分が教える学問を自分で学生に説明するのではなく、それに関する本を読み上げることもできる。
そしてその本が外国の昔の言葉で書かれていれば、学生がわかる言葉に翻訳していくこともできる。
それも面倒なら、学生に翻訳させて、ときおり意見を述べれば、それで講義をしているのだと自負できる。
この方法ならごくわずかな知識と努力で、学生に軽蔑されることも嘲笑されることもなく、本当に馬鹿げており、不合理で、笑うしかない発言をする恐れもなく、講義ができる。
そして、規則で縛っておけば、学生全員をこの紛い物の講義にかならず出席させ、そに時間に礼儀正しく教師に敬意を示す態度を取らせることができる。
国富論第五編第一章第三節第二項青少年教育のための機関の経営
テキストをそのまま読み上げたり翻訳したりするだけの講義は、大学講師としての資質に欠けるのかもしれないが、結構あるのではないだろうか。
(日本の)大学の講義では、使うテキストがその講師自身の著書であることが多いが、その場合はとくに説明せずに読み上げるだけでも不思議ではないとも思える。