オクスフォード大学
1167年、ヘンリー2世によって、イギリスの学生がパリ大学で学ぶことを禁じられたことをきっかけにオックスフォードに学者が集まり、パリから移住してきた学生たちによって非公認ではあるが大学が形成された。
16世紀ヘンリ八世の宗教改革と、ローマカトリック教会との断絶によって、オックスフォードでの教育方法は、中世の西方教会のキリスト教神学者によるラテン語を中心とした「スコラ哲学」から、古代ギリシア・ローマ時代の思想家の考えを復活させたヒューマニズムを中心する「ルネサンス教育」に変わった。
1571年に『大学法人に関する法令(Act for the Incorporation of Both Universities)』によって公式に制定された。ここで、大学の正式名称は「オックスフォードの大学の総長、修士、および学士(The Chancellor, Masters and Scholars of the University of Oxford)」と定められた。
イングランド内戦(1642-1649)の期間は、オックスフォード大学は王党派の中心でしたが、オックスフォードの町は、王党派に反対する議会の大義を支持した。
しかし、17世紀後半から18世紀にかけての啓蒙時代になると、ヨーロッパの学問は、聖書や神学といった従来の権威を離れ、理性(悟性)による、知によって世界を把握すしようするようになる。
啓蒙思想の時代は、スコットランド王国とフランス王国の思想家たちが、特に重要な役割を果たした。
オックスフォードのルネサンス教育の教師は、自身の専門分野の研究に基づくカリキュラムではなく、大学に対して権力をもつ政府の閣僚や高位聖職者の意向にしたがって行われるため、狭くて実用的ではなかった。
学生も半数以上はイングランド国教会に従う聖職者や政府の閣僚の子息であり、事実上、一般に解放されていなかった。
ヨーロッパで啓蒙思想教育が広がるなか、イギリスのオックスフォードの評判は低下した。入学者数は減少し、その教育は学生から無視されるようになる。
そのような欠陥の多い大学教育において1つの良い点があった、それは学部生が自分自身に教育を与えたことだった。
オックスフォード大学法(1854年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Oxford_University_Act_1854
1852年に議会委員会からオックスフォードとケンブリッジを改革する報告書が出された。
報告書は、オックスフォードが教授職を最も権威あるものとするドイツとスコットランドのモデルに従って、教授や学部が運営する中央集権的な大学を想定した。
大学の専門スタッフは、専門の研究に重点をおくよう強化され、もっと高い給料をもらうべきだとした。
寄付と報酬の変動に対処するために、大学の経営に責任を持つコミッショナーを任命した。
神学的テストを受けたり至上主義の誓いを受ける義務を廃足し、イングランド国教会の外の学生に大学を開放した。
これにより多くのスコットランド人が大学に通うことができるようになった。