アメリカ独立戦争
18世紀中頃の移民の多くはスコッツ・アイリッシュあるいはドイツ人の子孫で農民であった。
アメリカ独立戦争まで、ノースカロライナは北アメリカのイギリス植民地の中でも成長速度の最も速いところであった。ピードモント地区の小規模家族農園は、裕福な農園主が奴隷を使ってタバコや米を栽培する海岸地域のプランテーション経済とはっきりと対照をなしていた。
1760年までに、奴隷にされたアフリカ人人口はノースカロライナ人口の4分の1に相当し、海岸地域に集中していた。
イギリスの植民地課税
1768年、イギリス本国議会が植民地に対する課税権の確立ために、「タウンゼント諸法」が成立すると、植民地側の抵抗に会いイギリス軍がボストンを占拠、特にサミュエル・アダムズが中心となったボストンの組織(自由の息子たち)は1770年のボストン虐殺事件に発展した。
ノースカロライナでは1764年から1771年まで、世直し家らが民衆の支持を得てしばしば蜂起し、民兵隊をもって反乱指導者を処刑しようとする支配者層に対する世直しの戦争に突入した。最終的に憤懣を募らせた農夫達が武器を取って立ち上がり、ヒルズボロの裁判所を閉鎖した。トライアンはこの地域に軍隊を送って、1771年5月のアラマンスの戦いで世直し家達を打ち破った。
アメリカ独立戦争(1775年)が始まる数年前から、独立を志向するパトリオット(革命派・愛国者)と、イギリス本国と王に対する忠誠を誓うロイヤリスト(王党派)との対立構造が生まれてきた。
1773年の茶法によってイギリス東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が乱入し、積載されていた茶を海に投棄した(ボストン茶会事件)。
1774年、イギリス首相フレデリック・ノースは、ボストン港の閉鎖、マサチューセッツの直接統治、不当な告発に対する裁判権をイギリス本国に移す法律、イギリス軍に効率的な住居をあてがう法律など、「耐え難き諸法」で対抗した。
タウンゼンド諸法が撤廃されるまではイギリス製品のボイコットをバージニア植民地に呼びかけていたジョージ・ワシントンは、1774年の耐え難き諸法の成立を「我々の権利と主権に対する侵害」と見なした。7月、ワシントンは会議を主宰し、大陸会議の招集を求めるフェアファックス決議を採択した。
第一回大陸会議
1774年9月5日から10月26日、各植民地代表による第1回大陸会議が開催された。
「耐え難き諸法」の撤回を条件に、イギリス製品をボイコットし輸出も禁止する植民地間の盟約(同盟規約)が成立した。1775年のイギリスからの輸入額は前年の3パーセントにまで落ち込んだ。
1775年5月10日から第二回大陸会議の開始が決定された。
戦争の勃発
1775年の4月19日、イギリス軍(約700の正規兵)が、ボストン北西に位置するコンコードにあったアメリカ植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を実施し、植民地民兵隊と武力衝突した。レキシントンとコンコードに渡って激しい戦闘が行われ、当初数的に劣勢の植民地軍だったが、民兵達が続々と集まり続け総勢約1,700名となって、イギリス軍はボストンへ向けて撤退した。
その夜から、ボストン包囲戦の始まりとなった。
1775年5月10日から第二回大陸会議(1781年3月1日まで)を開催された。
大陸会議(革命派)は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。
1775年10月19日、ウィリアム・トライアン知事はニューヨーク市を離れ、海上のイギリス軍艦船に移ることを強制され、大陸会議が植民地の安全を危険に曝す者は誰でも逮捕すると命令したときに、事実上のイギリスによる植民地支配は終わった。
1776年4月12日、ノースカロライナ州ハリファクスで、アメリカ独立戦争中の中で、初めてイギリスからの独立を呼びかけた(ハリファックス決議)。
1776年7月、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。
1780年から1781年、ノースカロライナが戦いの焦点になった。大陸軍の将軍ナサニエル・グリーンは、1781年3月のギルフォード郡庁舎の戦いで、チャールズ・コーンウォリス指揮下のイギリス軍とまみえた。