ダンツィヒ自由都市

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ダンツィヒ自由都市

バルト海南部に面するポーランドの都市グダニスクのドイツ語。

グダニスク湾を擁するポーランド最大の港湾都市。

中世

グダニスクはドイツ騎士団の支配下で街とし近代化され経済成長した。

国王による都市化促進政策の一環として、ドイツからの移民が増加し、ユダヤ人もドイツ商人と一緒に招聘された。 

1361年ハンザ同盟の正式な貿易加盟都市となり、穀物(特に小麦)、木材、炭酸カリウムタールその他ポーランドの森から産出されヴィスワ川の運送網を経由してやってくるさまざまな品物の輸出が促進された。

1440年、グダニスクはドイツ騎士団に対抗したプロイセン同盟の設立に参加し、ドイツ騎士団の利権の排除を目指してポーランド王国と同盟し、13年戦争を起こした。

1457年5月25日にポーランド側の勝利によって終結し、ポーランド王カジミェシュ4世によってグダニスクはポーランド王国の自治都市としての特権を与えられた。ポーランド王国の直接の庇護を得た16世紀17世紀は、グダニスクの貿易と文化にとって「黄金時代」であった。

宗教改革の時代には多くの市民がルーテル派(主にドイツ系やポーランド系の中産階級)やカルヴァン派(主にオランダ系やスコットランド系の中産階級やポーランド人貴族)を受け入れた。しかしカトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。

ポーランド王国には一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土があった。


ポーランド王国の消滅以降

18世紀、度重なる戦争によってグダニスクの経済は徐々に衰退していった。1734年ダンツィヒ攻囲戦ではロシアに占領された。1793年第2次ポーランド分割により、グダニスクはプロイセン王国に併合され、公式名称も「ダンツィヒ」に変更された。


ナポレン時代

https://en.wikipedia.org/wiki/Free_City_of_Danzig_(Napoleonic)

1807年、ダンツィヒ攻囲戦

ナポレオンによってプロイセンから分離され、半独立都市国家ダンツィヒ自由都市が設立された。

1814年から1815年のウィーン会議の後、ダンツィヒはプロイセン王国に再編入された。


戦間期から第二次世界大戦初期まで

https://en.wikipedia.org/wiki/Free_City_of_Danzig

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によってドイツより切り離されてから第二次世界大戦初期にドイツ軍によって占領されるまでに現在のグダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)に存在した都市国家である。

ダンツィヒ(グダニスク)の都市部分とツォポット (Zoppot)、ティーゲンホーフ (Tiegenhof)、ノイタイヒ (Neuteich) 等の252の村と63の村落を含んでおり、東プロイセンに挟まれた地域であった。全面積は1966平方kmであり、領土はナポレオン時代の約2倍の大きさである。

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