ブエノスアイレス
https://ja.wikipedia.org/wiki/ブエノスアイレス
https://es.wikipedia.org/wiki/Buenos_Aires(スペイン語)
https://es.wikipedia.org/wiki/Historia_de_la_Argentina(アルゼンチンの歴史)
1580年、アスンシオンからパラナ川を下って来た、フアン・デ・ガライ率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー (La Trinidad) 市として再建された。
スペインの植民地政府は、ヨーロッパへの輸出品は全てペルーのリマを経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった。
フランス革命後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟を結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた(イギリスのラプラタ侵略(英語版))
ラ・プラタ副王は逃亡したが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のままイギリス軍を撃退した。自信をつけた民兵団はスペインへの忠誠を拒否、1810年5月25日に五月革命が勃発し、ポルテーニョ民兵団による自治政府が発足した。
1816年7月9日にはトゥクマンの議会でブエノスアイレスを首都に定めたリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言された。
1825年のブラジル戦争の最中に連合州はアルゼンチンと改名したが、植民地時代から続く都市のスペイン=ヨーロッパ的な文明生活と、地方のアメリカ=土着的伝統生活の差異は、ブエノスアイレスと内陸諸都市の対立をもたらし、最終的に1880年の首都令により、ブエノスアイレスが正式に連邦の首都に定められるまでこの対立は続くこととなった。
イギリス主導の独立による貧困格差の発生
五月革命はアルゼンチンとの自由貿易を望むイギリスによって祝福され、他方で自らもブエノスアイレスの大商人や大土地所有者だった独立指導者もヨーロッパやイギリスとの自由貿易を望んだ。
しかし、ブエノスアイレス主導の中央集権主義、つまり植民地時代から続く海外貿易のブエノスアイレス港による独占と自由貿易によって、スペイン植民地時代に発展していた内陸部の軽工業は、産業革命を進めていた安価なイギリス製品に自由競争で破れ、地方諸州で失業と貧窮が広がることになる一方で、アルゼンチンの皮革や塩漬け肉の輸出と引き換えに、高価なヨーロッパ製の嗜好品がブエノスアイレスの上流階級にもたらされた。