ユリウス・カエサル(ローマ皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ガイウス・ユリウス・カエサル
https://en.wikipedia.org/wiki/Julius_Caesar
https://www.y-history.net/appendix/wh0103-058.html
紀元前100年 – 紀元前44年3月15日
ローマ共和政末期に平民派の将軍として台頭、前60年、ポンペイウス、クラッススと共に三頭政治を行った。
ガリア遠征で名声を挙げ、次いで元老院・ポンペイウスと対立して内戦に勝利し、前46年に独裁的な権力を握った。
しかし、共和派によって前44年に暗殺された。
「賽は投げられた」(alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか」(et tu, Brute?) などの特徴的な引用句でも知られる。『ガリア戦記』等の名文家としても知られる。
「カエサル」の名は、帝政初期にローマ皇帝が帯びる称号の一つである。
ガリア遠征
https://ja.wikipedia.org/wiki/ガリア戦争
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-004.html
前58年~前51年まで、ローマのカエサルが行った軍事遠征。ガリアとはほぼ現在のフランス・ベルギーにあたり、ケルト系のガリア人が居住し、ローマの影響を受け、それに服属していた。
数回にわたる遠征では、カエサルは巧みな用兵と戦術でガリア人の抵抗を抑え、さらにライン川を越えてゲルマン部族を破った。また前55、前57年にはブリテン島にも進出した。ブリテン島の制圧はブリトゥン人の抵抗と兵員・食糧の海上輸送が十分でなかったために失敗した。
ブリタンニア
ブリタンニアは、古代ローマがグレートブリテン島南部に設置した属州の一つ。
ローマの支配は43年から410年まで及び、現在のイングランド南部を中心にローマ化が進んだ。
ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア戦争中の紀元前55年と54年に2度の遠征を行ったときが、ローマとブリタンニアが直接に接触した最初である。ただ、この遠征はガリアを掌握する一環として行われたものであり、恒久的な拠点を獲得するものではなかった。
ブリタンニアが実際にローマの勢力に組み入れられたのは、43年のクラウディウス帝の遠征によってである。
4世紀に入ると、ブリタンニアは2方面からの攻撃にさらされるようになった。西部からのアイルランド人の攻撃と、東部からのサクソン人の攻撃である。反乱が相次ぎ、ローマ人の活動は次第に低調になっていった。
ローマ人の撤退以後、ブリタンニアでは古来からのブリトン人の部族制が復活する。それぞれが王を戴く部族国家が乱立し、政治的統一がされる前にゲルマン系アングロ・サクソン人の侵入を迎える。混迷の暗黒時代の到来である。