ヴァロワ朝(フランス王家)

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ヴァロワ朝(フランス王家)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァロワ朝

https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-035.html

https://fr.wikipedia.org/wiki/Maison_de_Valois

1328年から1589年までフランス王国を支配したカペー王朝の分家。直接カペー人を継承し、ブルボン朝の前に当たる。


シャルル八世

在位:1483~1498年

1494年にイタリア戦争を開始したが、ナポリを維持することは出来ず、以後、ヴァロア家とハプスブルク家の対立を軸としたイタリア戦争が続くこととなる。この戦争はヨーロッパ各国の軍隊の近代化を促し、主権国家の形成に向かうことになった。

1498年、ヴァロワ家嫡流はシャルル8世の死去で断絶し、シャルル5世の子のオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=オルレアン家のルイ12世が即位した。


ルイ12世(ヴァロワ朝#8)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイ12世_(フランス王)

在位:1498年 – 1515年

イタリア戦争を再開し、ナポリ王国への主張以外にミラノ公国も主張した。

ナポリ王家の同族であったアラゴン王フェルナンド2世によって間もなくフランス軍は南イタリアから武力で追放される。

またフランスのイタリア介入を嫌う教皇は各国に呼びかけて神聖同盟を結成、1513年にフランス軍はミラノから追い出された。

ルイ12世はイングランドを対仏同盟から脱落させるためにイングランド王ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーと結婚したが、1515年1月1日に崩御した。

男子がいなかったため、王位は従甥のアングレーム伯フランソワが継承した。


フランソワ1世 (ヴァロワ朝#9)

在位:1515年 – 1547年

王権強化に努め、イタリア戦争を続けて神聖ローマ皇帝であるカール5世に対抗し、両者の間にあったイングランド国王ヘンリー8世コニャック同盟を結んだ。

中央集権体制(絶対王政)の確立・戦費の捻出・芸術の発達のために国家全体の運営を掌握し最適化する必要が生じ、税収増を目的とする一連の行政改革を実施、これらの改革は次代のアンリ2世にも受け継がれた。

議会の支援がなくとも資金を簡単に調達する方法がフランソワの治世に考案された。それは、年金型長期国債を国王の直轄財産と徴税権で担保するものである。国王は信用がなかったので、実際に発行された国債は年利10%をくだらなかった。

アメリゴ・ヴェスプッチのスポンサーとしてその航海を援助した。新大陸の中南米を押さえたカール5世に対抗し北米を狙ったためである。またジャック・カルティエカナダ植民に送り出し、ヌーベルフランス(フランス領カナダ、現在のケベック州)の基礎を築いている。


アンリ2世 (ヴァロワ朝#10)

https://ja.wikipedia.org/wiki/アンリ2世_(フランス王)

在位:1547年 – 1559年

父の対外積極政策を継承して、ハプスブルク家神聖ローマ皇帝スペインカール5世フェリペ2世とも争ったが、既にイタリアにおけるハプスブルク家の優位は動か図、1559年カトー・カンブレジ条約でフランスはイタリアへの権利を放棄し、イタリア戦争は終結した。

アンリ2世死後のフランスは、カトリックとプロテスタントの抗争で内戦状態(ユグノー戦争)になる。


フランソワ2世 (ヴァロワ朝#11代)

https://ja.wikipedia.org/wiki/フランソワ2世_(フランス王)

在位:1559年 – 1560年

スコットランド女王メアリー・ステュアートを王妃とした。

1560年の年末脳炎を引き起こして死亡した。王位はその後、弟シャルル9世アンリ3世が継承した後、男子が絶えてヴァロワ朝は断絶する。

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