インドの王国

投稿者: きくずみん 投稿日:

ゴルコンダ王国

https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴールコンダ王国

16世紀初頭から17世紀末にかけてインドデカン地方に存在したイスラーム王朝。

1687年、ムガル帝国の侵略により滅亡した。


ビジャープル王国

https://ja.wikipedia.org/wiki/ビジャープル王国

アーディル・シャーヒー朝とは、15世紀末から17世紀末までインドデカン、南インドに存在したスンニー派イスラーム王朝(1490年 – 1686年

バフマニー朝が分裂しできたムスリム5王国の中でもっとも有力な王国であった。

1686年にムガル帝国のアウラングゼーブによって首都ビジャープルを落とされ、ここに王国は滅んだ。


ムガル帝国

https://ja.wikipedia.org/wiki/ムガル帝国

https://www.y-history.net/appendix/wh0804-004.html

1526年、アフガニスタンから侵攻したバーブルがデリーに建国したイスラーム国家。

1526年に現在のウズベキスタン出身でティムール朝の王族である戦士バーブルが、近隣のサファヴィー朝オスマン帝国からの援助を受けて、第一次パーニーパットの戦いデリー・スルターン朝イブラーヒーム・ローディーを破り、上インドの平原を制圧して建国した

16世紀後半のアクバル帝の時に基礎が築かれ、17世紀後半のアウラングゼーブ帝時代に最盛期となり、ほぼインド全域を支配した。

アクバルはその権力基盤を強化するため、多様な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底を図った。そのため、アクバルの政府にはシーア派のペルシア人アラブ人、現地ヒンドゥスターンで生まれ育ったムスリムラージプートバラモン層、あるいは、マラーターまでが参画していた。また、ラージプートなどヒンドゥーの在地勢力を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ラージプート出身の女性を妻とした

その後、アウラングゼーブ治世(1658年)に、曾祖父アクバルから受け継がれてきた宗教融和を否定し、シャリーア(イスラーム法)による統治を行った。彼は帝国の宗教政策を変え、ヒンドゥーなど異教徒の寺院を破壊したばかりか、1679年にはジズヤを復活、国の最大領土を実現した。

強勢を誇ったムガル帝国もアウラングゼーブが死ぬと、各地で反乱が頻発し、ヒンドゥーの復興を掲げるマラーターが勢いを取り戻してデカンや北インド方面の各地を略奪、反乱軍との戦いは帝国に巨額の出費を強い財政を圧迫し弱体化した。

1720年代にはアワド太守ベンガル太守など肥沃な地方の長官らが独立し、そしてそのまま地方王朝が建国され、ムガル帝国は領土と歳入は大きく削減されて、事実上ムガル帝国の解体を意味した。

18世紀にはイギリス・フランスの侵攻を受け、特に東インド会社がインドを支配していた時代には、オールドデリー周辺に縮小されていたが、1857年のインド大反乱を機に、イギリス領インド帝国によって正式に解体された。


マラーター王国(マラーター帝国)

https://ja.wikipedia.org/wiki/マラーター王国

https://en.wikipedia.org/wiki/Maratha_Empire

黄色が1760年のマラーター王国の領土
(ただし、これはマラーター同盟としての領土も含んでいる)

インドデカン地方に存在したヒンドゥー王朝1674年 – 1849年

マラタ族は、西デカン高原(現在のマハラシュトラ州)のマラーティー語を話す戦士グループで、インド亜大陸に対するムガールの支配を終わらせ、マラーター帝国(ヒンダヴィ・スワラジャ「ヒンズー教徒の自治」)の建国で知られる。

マラーターは、アディル・シャヒ王朝に対して反乱を起こしたシヴァジムガルのリーダーシップの下で17世紀に顕著になり、ライガドを首都として王国を切り開いた。

1775年、東インド会社はプネのペシュワ家継承闘争に介入し、マラーターが勝利した第一次アングロ・マラーター戦争につながった。マラーターは、第2次および第3次アングロ・マラーター戦争(1805-1818)で敗北するまで、インド亜大陸の大部分を支配した。

マラーター王国はサーターラー藩王国として存続を許されたものの、1848年の藩王シャハージーの死を以て廃絶された。


インド帝国

インド大反乱(1857年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/インド大反乱

https://en.wikipedia.org/wiki/Indian_Rebellion_of_1857

英国王室に代わって主権として機能した英国東インド会社の支配に対する1857年から1858年のインドでの大蜂起、反乱参加者の出身・身分が多岐にわたり、インド社会全体に広がっていた。セポイ反乱インドの反乱大反乱、1857年の反乱インドの反乱、独立したインド側からは「第一次インド独立戦争」と言われる。

ムガル帝国の衰退によってマラーター同盟をはじめとする国内勢力が半ば独立していた状態であったため、これまで組織だったイギリスへの反抗は起きて来なかった。そのため、この大反乱はインドで初めての民族的反乱とされている。

大反乱は、1857年5月10日にインド北部の都市メーラトイギリス東インド会社が編成したインド人傭兵シパーヒー(セポイ)が蜂起したことに始まる。反乱の直前、約5万人のイギリス人と比較して、軍隊には30万人以上のセポイがいました

反乱の失敗によってムガル帝国は名実共に消滅、皇帝バハードゥル・シャー2世は有罪の判決を受け、廃位されてビルマ流刑となり、反植民地運動は衰勢となった。

イギリス政府は、一会社に広大なインドの領土を託すことの限界であるとして、この反乱の全責任を負わせる形でイギリス東インド会社を解散させ、インドを直接統治することにした(1858年インド統治法英語版

そして、1877年にはイギリスのヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国の成立を宣言し、形式的にも本国政府がインドを統治することとなった。

多くの藩王国が反乱に対して非好意的もしくは敵対的でもあったため、イギリスは藩王国をインド支配における傀儡勢力として保護し、養子による相続も認められるようになった

カテゴリー: others歴史経済

0件のコメント

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です