ヘンリー8世 (チューダー朝#2)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘンリー8世_(イングランド王)
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII
https://www.y-history.net/appendix/wh0903-048.html
1491年6月28日-1547年1月28日、イングランド・チューダー朝第2代(在位:1509年4月22日〜1547年)
絶対王政を強化し、ローマ教会と対立してイギリスの宗教改革を断行した。
ローま・カトリック教会破門後は、アイルランド議会においてみずからをアイルランド王とする独立王国とすることを議決させた。こうしてヘンリ8世はイングランドとアイルランドの連合王国を統治する国王となった。
宗教改革は議会との協調で進めるなど、絶対王政ではあるが議会との概ね良好な関係を保った。それによって当時ヨーロッパの弱小国に過ぎなかったイギリスが後の大国に発展する前提を作ったと言うことができる。
宗教改革
1517年にルターが『95カ条の論題』を発表するとそれに反論する論文を自ら公表し宗教改革には反対していた。
しかし、ヘンリーは6つの結婚と、最初の結婚(アラゴンのキャサリンと)を無効にしようとしたたことでローマ・カトリック教皇クレメンス7世との意見が対立、ヘンリーはイギリスの宗教改革を開始し、イングランド国教会を教皇の権威から分離した。
彼は自分自身をイングランド国教会の最高長に任命し、修道院を解散し、そのために教皇によって破門された。修道院の土地はジェントリに売り渡され、国民の支持を受け流ことになる。
イギリス統治
イングランドのみでなくウェールズ、スコットランド、アイルランドの統治権も行使し、イギリスを一つの主権国家としての統合を進めた。
アイルランドは12世紀以来、イングランド王が支配していたが、形式的にはローマ教皇がイングランド王にアイルランドへのキリスト教布教をするかわりにその太守として統治するという形をとっていた。そのもとでイングランドからの植民が行われ、アングロ系地主が先住民ケルト系ゲール人を従属させていた。アイルランドのアングロ系諸侯は自立心が強く、またカトリック信仰が根強かったので、イングランド王の統治はなかなか浸透しなかった。
1535年と1542年のウェールズ法の法律でウェールズをイングランドへ併合した。
スコットランド王ジェームズ5世がまふだ若かったことから、スコットランドへの侵攻を計画、1542年ソルウェイ・モスの戦いで勝利し、ジェームズ5世は12月15日に死亡した。
次に、息子のエドワードをジェームズの後継者であるメアリーと結婚させることで、イングランドとスコットランドの王冠を統一しようとしたが、スコットランド議会によって拒否された。
結局、スコットランドとの同君連合はチューダ朝では実現せず、チューダー朝断絶後、スコットランド王のスチュアート朝(1603年)によって達成される。