ジョージ二世(ハノーヴァー朝#2)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ2世_(イギリス王)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_II_of_Great_Britain
ハノーヴァー朝第2代グレートブリテンおよびアイルランド国王、ハノーファー選帝侯(在位:1727年 – 1760年)
即位
1701年王位継承法と1707年合同法でイギリス王位継承権がプロテスタントに限定されたため、継承順位が50位以下だった祖母のゾフィー・フォン・デア・プファルツは一気に継承順位2位まで上がった。1714年にゾフィーとアン女王が相次いで崩御すると、父のハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒはイギリス王位を継承した(ジョージ1世)。父の治世初期は反対派の政治家例えばロバート・ウォルポールに味方し、1720年に反対派が与党と和解するまで続いた。
ジョージ2世は1727年10月22日(グレゴリオ暦)にウェストミンスター寺院で戴冠した[49]。作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは招聘されて司祭ザドク(英語版)などジョージ2世の戴冠式アンセムの4曲を作曲した
最後のジャコバイト
1745年、カトリック教徒であるジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(老僭王)の王位継承権を支持したジャコバイトはジェームズの子チャールズ・エドワード・ステュアート(若僭王または「ボニー・プリンス・チャーリー」)に率いられて最後のジャコバイト蜂起を起こし、ジョージ2世を廃位しようとしたが失敗した。ジャコバイト主義はつぶされ、以降ステュアート家復帰の試みはなくなった[97]。
外交
歴史家の間ではジョージ2世が象徴的な役割しか果たさず、ウォルポールなどの上級官僚の政策や勧めに概ね従ったことが通論である[58]。ジョージ2世はヨーロッパにおける戦争に前向きだったが、内閣はより慎重だった。
ウォルポールの意思に反し、ジョージ2世が喜んだことに、イギリスは1739年にスペインとの戦争を再開した[79]。
イギリスの対スペイン戦争であるジェンキンスの耳の戦争は1740年に神聖ローマ皇帝カール6世が死去した後に勃発したオーストリア継承戦争の一部となった。
問題となったのは、カール6世の娘マリア・テレジアによるハプスブルク家領の継承権であった[80]。オーストリア継承戦争自体は1748年にマリア・テレジアがオーストリア女大公として承認されるまで続いた。
七年戦争
1754年、フランスとイギリスの敵対、特に北米の植民地化をめぐって競争が継続した[105]。フランスによるハノーファー侵攻を恐れたジョージは、(オーストリアと敵対していた)甥のフリードリヒ2世が統治していたプロイセン王国と同盟した。ロシアとフランスは元は敵国であったオーストリアと同盟した。
フランスによるイギリス領ミノルカ島への侵攻により、1756年に七年戦争が勃発した。
ジョージ2世の崩御は七年戦争とフランスとの一連の植民地戦争が1763年のパリ条約で終結する3年ほど前であったが、この時イギリスの勝利はほぼ確実になっていた