フランス革命#3

Created with Sketch.

フランス革命#3

急進左派政権

1792年3月、フイヤン派の後に成立した内閣はジャコバンクラブの中心メンバーのブリッソーを中心にしていたのでブリッソー派(主戦派)と呼ばれた。

1792年の春、各地で領主に対する暴動が起き、領主の城が焼かれ略奪された。3月30日にジロンド派(急進左派)の提案で亡命貴族財産を差し押さえ、これを国民に対する賠償に用いることが決定された。

フランス革命戦争始まる

1792年7月オーストリアとプロイセンに宣戦布告した(フランス革命戦争

しかし、国境に展開したフランス軍は依然として将校は貴族で、革命前の階級制度が維持されていた。貴族将校や貴族の将軍は革命政府を嫌悪して戦争をやる気が無かった。国王と王妃も敗戦を望み、フランスの作戦計画は国王と王妃を通してオーストリアに内通されていた。

フランス軍は各地で敗走し、敵国軍はあまり困難なくフランスに侵入した。そのため、ジロンド派は敗戦の責任を取り、政権をフイヤン派に譲り渡す。

第三勢力と義勇軍

7月6日にルイ16世は、国境にプロシア軍が迫っていることを議会に報告した。

1792年7月11日、無所属の中央派議員は革命フランスを敵国から守る意思を持っている者が多かったので、立法議会は非常事態宣言として「祖国は危機にあり」と各地の連盟兵(義勇兵)に訴えた。

このとき、パリに集結した連盟兵の中のマルセイユ部隊が歌ったラ=マルセイエーズは後にフランス国歌となる。

百年戦争で劣勢になったとときは「ジャンヌ・ダルク」が国内の対立勢力をまとめて、反撃に転じた。

今回は、義勇軍の「ラ・マルセイユ」という歌。さて、反撃にたんじるか?

ところで、政権が戻ってきた穏健派には、休戦・講和できるような外交力はなかったのだろうか。

今更、急進左派、主戦派の失策の尻ぬぐいはできないほど、国内情勢が悪化していたのだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です