ヨーロッパの領主
領主の意義
元々は開墾などで土地を自然のままの単なる荒地や原野から食料などの生産(農業)に即した状態(→穀倉地帯・治水)に整備するのは、個人や小集団の手には余る仕事であったし、まして近隣地域からの侵略から守ることは、民兵を組織化するにしても困難が生じた。
領主は、封建制の時代における政治ないし地方自治の形態で、その多くは世襲制による。ヨーロッパ地域では中世から近世にかけ国家という単位が発生する過渡期的に多くの領主が貴族として国家に編入されていった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/領主
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/封建領主#ヨーロッパにおける封建領主
封建領主相互に階層性があり、国王や教会も領主であり、諸侯、騎士などからなる。より上級の領主(とくに国王)から与えられた土地(封土、feudum)とその住民に対する支配権を領主権(バン領主権、Seigneurie banale)という。
これらの封土は荘園として経営され、荘園内の農民を支配し、封建領主の館を中心として自給自足を原則とする荘園制がかたちづくられた。領主権には裁判権、警察権や農民からの貢納を徴収する権利などがあり、支配下の農民を保護する義務も有していた。
中世ヨーロッパの3身分編集
中世ヨーロッパにおいては、
に身分を分ける考え方が浸透した。戦士身分は騎士とよばれたが、国王をはじめとする高位の貴族も広義においては戦う人、すなわち騎士に含まれる。祈る人もまた封建領主であり、人びとを3身分に分ける考え方はフランス革命前の身分別議会である三部会にまで引き継がれた。
イギリスでは、貴族からではなく国王から直接封土を授かった者(テナント・イン・チーフ)のうち、とくに大きな所領を持ち有力なバロン(baron)を諸侯と訳している。
ヴィドゥキントを降伏させたカール大帝
フランスでは、もともとはフランク王国のカール大帝の時代に設けられた地方長官「伯」(ラテン語:comes、フランス語:comte)が、やがて世襲化し、自立化して領域支配をおこない、ラテン語でプリンキペス(principes)と称した。これを諸侯と呼んでいる。フランスでは諸侯のうち有力な者が、公(duc)や侯(marquis)を名乗るようになる。
騎士(knight)とは、主君と主従関係を結んで軍事的奉仕をおこなう戦士階級の総称である。一般には小領主のことが多く、直接的な軍事担当身分であった。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いに際し、フランク王国の宮宰カール・マルテルが騎士制度を創設したことが嚆矢とされる。当初は騎士は叙任されるもので、世襲的身分ではなかったが、騎士としての装備を維持する必要から封土が与えられた層に固定され、やがて男爵以上の貴族の称号を持たない層に対する称号となった(ナイト爵)。