英蘭戦争
https://www.y-history.net/appendix/wh1001-056.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Dutch_Wars
主に17世紀半ばから18世紀後半にかけてオランダ共和国とイングランド間で戦われた4回の海上での戦争。
17世紀後半の3つの戦争は貿易と海外植民地をめぐって起こり、18世紀後半の戦争は、オランダがアメリカ独立戦争の反乱軍に間接的な支援を提供したことによるものである。
第一次英蘭戦争(1652-1654)
イギリス(イングランド共和国)は第一次英蘭戦争では、多くのオランダの商船を破壊または捕獲したが、主な目的であった貿易戦争には勝つことができなかった。
疲弊した両国は、和平交渉に臨み、ウェストミンスター条約 (1654)によって戦争は終結した。
イングランド共和国のクロムウェルは、国王チャールズ1世の娘婿であるウィレム(後のウィレム3世)の総督(シュタットホルダー)就任を恐れ、条約には秘密条項である隠遁法が含まれており、オレンジのウィリアム3世王子がオランダ州のシュタットホルダーになることを禁じた。
オランダ共和国シュタットホルダーレス期間の代表ヨハン・デ・ウィットが受け入れた(隔離法)ことによって、イギリスは貿易交渉では大幅に譲歩した。
その結果、イギリス側は、イギリス東インド会社(E.I.C.)が競争相手であるV.O.C.によって事実上ブロックされていた東インドとの自由貿易という目的を達成することができず、世界の主要な貿易国としてオランダに取って代わることができなかった。
第二次英蘭戦争(1665年3月4日-1667年7月31日)
https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Anglo-Dutch_War
第一次英蘭終結後、ヨハン・デ・ウィットはオランダは海軍拡張政策を開始し、60隻の大型船を建造し、イギリス艦隊との軍事的なギャップを埋めることに成功したが、ポルトガルとスウェーデンの同盟国を破ったにもかかわらず、イングランド共和国との新たな紛争を避けてきた。
1660年、オランドのとの対立を避けてきたイングランド共和国は崩壊し、チャールズ 二世が王政復古する。
絶対王政を支持するチャールズ 二世は、ウェストミンスター条約 (1654)の秘密条項に反し、甥のウィリアム3世をオランダ共和国のシュタットホルダーにしようとしたことから、再び対立が始まる。
イギリスの航海法、関税、関税、製造業の規制などの措置は、もともと収入を上げるために設計されたものであるが、英国の貿易の保護に向けられた自由貿易による国内資本の拡大には寄与しなかった。
一方オランダの税制は、輸出に関税を課すのではなく、自国の消費者に物品税を課すことで、オランダ商品は世界の市場に拡大し、イギリスが関税制度によって貿易が抑制されている中で、オランダは自由貿易によって市場が拡大した。 したがって、イギリスは戦争によって経済的優位性を獲得しようとするため二回目の戦争は避けられなかった。
チャールズ 二世(カトリック信者)は、イングランドとオランダの間の戦争を支持、通商上の利益の独占を目指して航海法を更新すると共に、1664年には新大陸のオランダ植民地ニューネーデルラントを侵略、その中心ニューアムステルダムを占領してニューヨークと改称した。反発したオランダが宣戦布告して1665年に第2次英蘭戦争が起こった。
オランダ共和国の都市人口は、イングランドの都市人口を上回り、イングランドの2倍以上の金額を戦争に費やすことができた。1667年初頭までに、イギリスの財政状態は絶望的になっていた。
1667年7月31日、ブレダ条約によって第二次英蘭戦争は終結した。
イギリスはニューネーデルラントの所有権を維持することができたが、オランダは貴重な南アメリカのプラウランとスリナムの砂糖プランテーションを支配し、西アフリカの全ての交易所(ケープコースト)、フォート・アムステルダム(コルマンティン)を取り戻した(ウェストミンスター条約)。
航海法は、オランダ船がドイツをオランダの商業後背地の一部として扱うことなどオランダに有利に修正された。