ハイドンの弟子、ベートヴェン

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ハイドンの弟子、ベートヴェン

参考)青木やよひ「ベートヴェンの生涯」平凡社

ボンにいたベートーヴェンは、1792年の秋、ケルン選帝侯(ボン在住)の留学生として、ハイドンにハプスブルク家直轄領ウィーンに呼ばれた。

ウィーンでの最初のパトロンはカール・リヒノフスキー侯爵夫妻で、ベートヴェンを自身の邸宅に住まわせた。

当時のウィーンは、ロンドン、パリに次ぐヨーロッパで3番目の大都市だった。

この邸宅では、有名な弦楽器奏者を集めてサロン演奏会が開かれていた。

そして、オーストリアのプロイセン大使ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の自宅に招かれている。

彼は、音楽について慧眼の持ち主で、大バッハやC.P.E.バッハの音楽をウィーンに広め、モーツァルトのパトロンとなった音楽界の長老であった。

ベートヴェンは後年、この男爵に『交響曲第一番』を献呈している。

ベートーヴェンがウィーン入りした時は、すでにモーツァルトは夭逝していた(1790年)

ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵によって、大バッハやC.P.E.バッハの音楽で耳の肥えたウィーンの大貴族たちは、モーツァルトに変わる新たな若い音楽家を探していた。

ハイドンは健在だったが、1732生まれですでに60歳の大家で、心はロンドンに向いていた。

ベートヴェン(22歳)はタイミングよくそこに登場したといえる。

ウィーンに突然現れた田舎者の若造が、日に日に評判を高めていったことは、当時ウィーンで活躍していたピノ演奏家。作曲家にとっては納得がいかなっかった。

ベートーヴェンの本領は独特の即興演奏にあった。それはC.P.D.バッハやモーツァルトの優雅で滑らかな表現に慣れた古い人たちの耳には「耳障り」「狂気じみている」と聞こえたらしい。

しかし、洗練された耳の持ち主にとって、その革新的な即興演奏は、類ない感動を引き起こしたことは、今も昔も変わらない。

ベートヴェンの弟子ツェルニーが子供の頃、父から聞いた話

当時のウィーンの3大ピアニストと言われたヨーゼフ・ゲリネクが田舎者のピアニスト(ベートーヴェン)と試合をして負けた時の言葉。「あの若者は人間じゃなあない。悪魔ですよ・・・とにかく彼はクラヴィアの即興演奏で、我々がこれまで思っても見なかった至難の技と効果を発揮したんです。」

弟子のリースの証言

私が聴いたあらゆる音楽のうち、この点においてベートーヴェンが占めた水準に達したものは一人もいない。彼の中から湧き出る楽想の豊かさ、彼自身がそこに没入してしまう雰囲気の、処理の多様さ、おのずと現れたり、彼が導入したりする至難の技、それは尽きることがなかった」

ハイドンが留守中のベートーヴェン

ベートーヴェンはハイドンがロンドンに旅立つ1794年の初めまで、ハイドンに弟子入りしたのは一年と少しだった。ハイドンはロンドン行きの準備で忙しく、ベートヴェンはあまり熱心な指導は受けられなかったようだ。

ただし、ハイドンのベートヴェンに対する評価は高かった。

ハイドンからボンのケルン選帝侯に送った手紙

やがてベートヴェンがヨーロッパ最大の音楽家となることは、専門家も好楽家も等しく認めざるを得ず、しかも私は、自分が彼の師と呼ばれることに光栄に思うでしょう」

ハイドンがウィーンを離れてロンドンに行くことになった理由はいくつかあります。

  1. エステルハージ家の宮廷楽団の解散
    ハイドンは長い間、ハンガリーの貴族エステルハージ家の宮廷楽団の楽長を務めていました。しかし、1790年にエステルハージ家の当主であったニコラウス・エステルハージが亡くなり、その後を継いだアントン・エステルハージは、父ほど音楽に熱心ではなかったため、宮廷楽団を解散してしまいました。このことによって、ハイドンはウィーンに留まる必要がなくなり、自由な立場となりました。
  2. ロンドンからの招待
    ちょうどその頃、音楽興行主のヨハン・ペーター・ザロモンがハイドンをロンドンに招待しました。ザロモンは、ハイドンがロンドンで新作を発表することが成功すると見込み、彼に交響曲を作曲させ、演奏会を企画しました。ハイドンにとってこれは、大都市ロンドンで自分の音楽を広める絶好の機会となり、また経済的にも非常に魅力的でした。
  3. 新しい音楽的挑戦と国際的名声の獲得
    ハイドンはすでにウィーンで大きな名声を得ていましたが、ロンドンではさらに多くの聴衆に自分の音楽を届けることができると考えました。また、彼は新しい環境で新たな音楽的挑戦を求めており、ロンドン滞在は彼の音楽スタイルに新たな発展をもたらしました。
  4. この時期、彼はロンドンで大成功を収め、今日「ロンドン交響曲」として知られる一連の交響曲(12曲)を作曲しました。

このような背景から、ハイドンはウィーンを離れ、ロンドンで活動することを決断しました。この決断は、彼にとって非常に成功したものとなり、彼のキャリアを国際的に大きく広げました。

ベートヴェンは師匠ハイドンがロンドン旅行の留守中に、ハイドン以外の多く音楽家の指導を受けている。

注目すべきは、若いとはいえ、既にパトロンもつき、社交化の有名人であって、弟子も持っていたベートヴェンが、ハイドン以外の多くのウィーンの大家から基礎的な音楽指導を受け、自分に欠けていることを補うという地道な努力をしていることだ。

あの「モーツァルト暗殺説」の噂に出てくるアントニー・サレエリも指導を受けた一人である。

ハイドンとの確執

そのようなハイドンとベートヴェンとの師弟関係の間に一つの齟齬が生まれる。ベートヴェンがハイドンなど音楽家の前で、初演した作品1『ピアノ三重奏』が初演された時のこと。皆、師匠ハイドンの総評に注目したが、

ハイドンは三番目のハ短調について将来機会があっても出版してはいけないと忠告した。

しかし意外なことに、その三番目のハ短調は聴衆に最も喜ばれ、ベートーヴェンにとっても最高の自信作だったのである。

そこでベートーヴェンは、ハイドンが自身の成功を妬み、聴衆の面前で悪意のある批評をしたと思い込んだそうである。新旧世代間の避け難い感性の衝突とも言われる。

その後、ベートヴェンは新作のピアノ・ソナタ(作品2、第1〜3番)をハイドンに献呈しているが、献呈の際に通常入れるべき「ハイドンの弟子」という肩書きをつけることはしなかったということだ。

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