C.P.E.バッハの活躍した時期

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C.P.E.バッハの活躍した時期

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(C.P.E.バッハ)は、18世紀中頃から後半にかけて活躍した作曲家です。彼の音楽は、バロック音楽から古典派音楽への過渡期を象徴し、特にその革新性と感情表現の豊かさで知られています。以下は、C.P.E.バッハが活躍した時期を区分して、その特徴を説明します。

1. 初期(1730年代〜1750年代)

この時期、C.P.E.バッハはベルリンで活動を始め、主にプロイセン王国のフリードリヒ大王の宮廷に仕えました。彼は1740年に宮廷楽団のメンバーとなり、王の個人奏者(宮廷チェンバロ奏者)として活躍しました。この時期は、バロック様式の影響がまだ強いものの、彼自身の独自のスタイルが徐々に形成され始めた時期でもあります。

特に、バロック期の対位法や厳密な形式を超えて、感情様式(エンファインドサムカイト様式)と呼ばれる感情豊かで自由な表現を追求する作曲スタイルを発展させました。このスタイルは、後に彼の鍵盤作品や室内楽作品に強く反映され、当時の聴衆に新鮮な感動を与えました。

代表作のひとつとして、「プロイセン・ソナタ」(1742年)が挙げられます。この作品は、プロイセン王に献呈されたもので、彼の鍵盤音楽における革新性を示しています。

2. ベルリン時代(1740年代〜1768年)

この時期は、彼がベルリン宮廷で多くの鍵盤作品や室内楽作品を作曲し、ヨーロッパ全土で名声を得ていった時期です。特に、鍵盤楽器のソナタ協奏曲の分野で革新的な試みを行い、バロック音楽の形式を超えて、感情豊かな表現を追求しました。

彼のスタイルは、後にモーツァルトやベートーヴェンに大きな影響を与えました。特に、自由な転調や大胆な和声進行、強い感情表現は、これらの後の作曲家たちが取り入れた重要な要素となりました。

3. ハンブルク時代(1768年〜1788年)

1768年、C.P.E.バッハはベルリンを離れ、ハンブルクの教会音楽監督(音楽総監督)に就任しました。彼はハンブルクでの新しい役割を通じて、宗教音楽にも精力的に取り組むようになります。この時期に作曲された宗教音楽交響曲オラトリオは、彼の作品の中でも特に高く評価されています。

このハンブルク時代は、彼の音楽活動の集大成とも言える時期であり、多くの交響曲や宗教的カンタータを作曲しました。特に宗教音楽において、バロック期の様式を残しながらも、古典派音楽へと向かう新しい表現の可能性を開拓しました。

また、彼は1780年代に出版した鍵盤楽器のための作品集理論書によって、当時の鍵盤楽器奏者や作曲家に大きな影響を与えました。彼の著書『正しいクラヴィーア奏法についての試論』(Versuch über die wahre Art das Clavier zu spielen、1753年)は、当時の音楽教育において非常に重要な教本とされました。

4. 晩年(1780年代)

晩年のC.P.E.バッハは、引き続きハンブルクで作曲活動を続けながらも、彼の健康は次第に衰え、1788年に74歳で亡くなりました。彼の音楽は、当時のヨーロッパの音楽シーンに強い影響を与え、特に次世代の作曲家たちにとって重要な存在でした。

活躍の時代背景

C.P.E.バッハは、バロック音楽の終焉から古典派音楽の確立までの過渡期に活躍したため、彼の音楽にはこの時代の変化が如実に反映されています。バロック音楽の形式的な規則を破り、より自由で個人的な感情表現を重視する彼の作風は、古典派音楽の発展に大きく貢献しました。

彼は、後にハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといった作曲家に多大な影響を与え、特に鍵盤音楽やソナタ形式において、これらの作曲家たちがC.P.E.バッハの作品から学び、発展させた要素が多く見られます。

代表的な作品

  • プロイセン・ソナタ(1742年)
  • ヴュルテンベルク・ソナタ(1744年)
  • 交響曲 ホ長調 Wq. 183/1
  • 宗教的カンタータ
  • オラトリオ『イースター・カンタータ』

C.P.E.バッハの音楽は、その表現力豊かなスタイルと構成の自由さから、後の作曲家たちに多大な影響を与え、特に鍵盤楽器の技法感情表現において新たな道を切り開いた重要な人物です。

「鍵盤楽器の技法感情表現において新たな道を切り開いた」

といことは、C.P.Eバッハが、父バッハのバロック音楽を継承しながら、後世のロマン派まで続くクラシック音楽に与えた影響は大きそうだ。

ところで、父の大バッハは、メンデスゾーン?が再評価するまであまり評判は良くなかったようだ。

はい、バッハを再評価した後世の作曲家の一人として有名なのは、フェリックス・メンデルスゾーンです。彼は特に1829年にベルリンでバッハの「マタイ受難曲」を指揮し、バッハの音楽の復興に大きく貢献しました。この演奏はバッハが亡くなってから約80年後に行われたもので、バッハの作品に再び注目が集まるきっかけとなりました。

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、バッハの音楽は一時的にあまり評価されていなかったものの、メンデルスゾーンの努力により、バッハは再びクラシック音楽の重要な作曲家として認識されるようになりました。この活動が契機となり、バッハの作品が広く演奏され、研究されるようになりました。

古典派の重鎮として当時の音楽界を引っ張った「ハイドン」が、CPEバッハを「私たち全員の父」と呼んだのがよくわかる。

古典派の有名な作曲家たち、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェン、その他クレメンティ、ドュセックなどにとっては古い音楽?である大バッハの評価はあまり高くなかったのだろう。大バッハのバロック音楽とハイドンを筆頭とする古典派の音楽にあまりつながりが感じられなかったのはそういうことだったのだ。

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