資本主義経済はわらしべ長者
わらしべ長者の話
最初に持っていたただの麦わらから、物物交換していくうちに、大金持ちになったという話
ところで、資本主義の基本は分業による物物交換である。
そう考えると、わらしべ長者はただのファンタジーではなく、資本主義経済そのものをわかりやすく話している。
ただ、麦わらを一本をそのまま持っていても、おそらくまともなモノに交換してくれる人はいない
。
その辺りは、わらしべ君、超ラッキーな人物ということでファンタジーとも言える。
資本主義経済においては、生きていくために必要なもの、つまり麦わらではなく、食料や衣服、石鹸や電気など、所謂「生活必需品」を国民一人一人に国が配給してくれる訳ではない。
わらしべ君の場合、麦わらを「資本」として、ファンタジーではなく現実に必要な物を手に入れるためにはどうするか?
つまり、麦わらから「草履」や「帽子」など、交換するに値する「商品」を自分で作るという「労働」が必要なのだ。
マルクスも同じことを言っているので、所謂、共産主義も国富の蓄積する構造の基は、同じく「労働」ということに変わりはないだろう。
だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用的労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一実存条件であり、人間と自然との物質代謝を、それゆえ人間的生活を、媒介する永遠の自然必然性である。資本論(一) 商品の二因子、即ち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)
分配の仕方が違うだけだと思う。
わらしべ君のように何も労働しないで、次々と生活必需品が手に入るというのは、おそらく宝くじが当たるような確率である。
ただ現代のように、知恵と行動力があれば、ものづくりやサービスといった「労働」をすることなく「金融取引」によって富を築くことのできる「富裕層」もいる。
しかし、それもかなり低い確率であって、アダム・スミスの言うように総体としては、利益はプラスになることはないと思える。
つまり、国民が全員、労働ではなく、パソコンの前で金融取引「だけ」をやっても、国富はたまらず、その国が繁栄することはないだろう。
やはり、国家の繁栄のためには、国民一人一人の「労働」は欠かせないと思う。
※ピケティの本は読んでいないが、実証的研究ではそうとも言えないかもしれないが・・