フランス革命とウィーンのベートーヴェン
ベートヴェンのいるウィーンはオーストリア・ハプスブルク家の直轄領である。
1フランス革命の時代、フランス王家ルイ類16世に嫁いで1793年に処刑されたマリーアントワネットは、オーストリアの君主、ヨーゼフ二世とレオポルト二世兄弟の弟であった。
レオポルト二世を継いだフランツ二世は、革命がオーストリアに波及するのを恐れ、ヨーロッパ諸国と同盟を結びフランスとの戦争に巻き込まれる。
1794年8月2日、ベートーヴェンがボンの出版社の友人に宛てた書簡に、当時のウィーンの状況についてこう述べている
「当地では、何人もの要人が拘束されました。革命が起こるのではないかと言われているからです。しかし私はオーストリア人は黒ビールとウィンナ・ソーセージが手に入る間は、反抗などしないと信じています。郊外に通じる城門は午後十時には閉鎖されるという噂です。兵士たちはマスケット銃を担いでいます。ここではあなただって、大声なんかあげようとは思わないでしょう。そんなことをすれば、警察があなたを留置することになるでしょうから。」
今で言えば、戒厳令がウィーンに敷かれている状態である。
ウィーンの音楽家にとっては差し当たり影響はないものの、ケルン選帝侯領のライン川周辺では、フランス軍の侵攻が度々起こっていた。
そのような中で、1794年3月には、ボンの選帝侯からのベートーヴェンに対する留学費用が中止された。そしてボンはフランス軍に占領され、ベートヴェンが支えていたケルン選帝侯の宮廷は消滅したのである。
これによってベーヴェンが少年時代から名乗ってきた「宮廷音楽家」という身分も失うことになる。
しかし「宮廷音楽家」という身分を失うことは、一方では音楽家として「公的な」煩わしい拘束から解放され、自由な音楽活動ができるということでもあった。
ハイドンがロンドンで自由に活動できたのも、そのような理由からである。