ハイドンの活躍した時期
ヨーゼフ・ハイドン(Joseph Haydn)は、18世紀から19世紀初頭にかけて活躍した作曲家で、特に古典派音楽の確立に大きく貢献しました。彼の活躍時期を具体的に見ると、以下のように区分することができます。
1. 初期(1740年代〜1760年代)
この時期は、ハイドンが音楽家としての基礎を築いた時期です。彼はオーストリアのウィーン近郊で生まれ、聖歌隊員として音楽の初歩を学びました。独立後、貴族の邸宅で楽団員や音楽教師として働きながら作曲活動を開始しました。
1761年には、オーストリアの名門貴族であるエステルハージ家に仕え、楽団指揮者(カペルマイスター)として活動を始めます。これが彼の音楽人生の大きな転機となり、彼はその後約30年間にわたり、エステルハージ家の宮廷楽団のために多くの作品を作曲しました。
2. 中期(1770年代〜1780年代)
この時期は、ハイドンが国際的に認知され始め、作品の数と質が大いに向上した時期です。エステルハージ家に仕えていた間、彼は「交響曲の父」や「弦楽四重奏の父」と呼ばれるほど、交響曲や弦楽四重奏曲の分野で革新的な作品を数多く作曲しました。
エステルハージ家の支援のもと、ハイドンはオペラ、宗教音楽、室内楽、交響曲などのさまざまなジャンルで活動しました。彼の有名な交響曲の多く、特に「驚愕交響曲」や「告別交響曲」などはこの時期に書かれました。
3. 後期(1790年代〜1809年)
1790年、エステルハージ侯ニコラウス1世が亡くなり、ハイドンの役割が軽減されると、彼は新たな自由を得て、ロンドンへの訪問を行います。1791年と1794年の2回にわたり、ハイドンはロンドンを訪れ、そこで大きな成功を収めました。このロンドン滞在中に、彼は一連の交響曲(「ロンドン交響曲」とも呼ばれる12曲)を作曲し、非常に高い評価を受けました。
ハイドンの後期作品には、交響曲、オラトリオ(「天地創造」や「四季」)といった大規模な作品が含まれています。これらの作品は、彼の創作の絶頂期にあたります。
4. 晩年(1800年〜1809年)
晩年のハイドンは、健康が衰え始めたため、次第に作曲活動から退きます。彼はウィーンで静かに暮らし、多くの時間を過ごしました。1809年5月31日、ウィーンでこの世を去ります。彼の死は、フランスのナポレオン軍によるウィーン侵攻の時期と重なりましたが、ナポレオンはハイドンの功績を称えて特別な敬意を払ったとされています。
活躍の時代背景
ハイドンが活躍した時期は、音楽史的にはバロック音楽の終焉から古典派音楽の確立、そしてロマン派音楽の黎明に至る時代です。彼は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトやルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンといった他の古典派の巨匠たちと並び、その時代の音楽を大きく形作りました。彼の音楽は、形式の整った美しさと感情表現の豊かさを両立させ、後世の作曲家たちに多大な影響を与えました。
代表的な作品
- 交響曲第94番「驚愕」(1791年)
- 交響曲第45番「告別」(1772年)
- 天地創造(1798年)
- 弦楽四重奏曲「皇帝」(1797年)
これらの作品は、ハイドンの創造的才能がいかに豊かで、またいかに時代を超えて評価されたかを物語っています。