ヴェルフル「も」すごいぜ!
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨーゼフ・ヴェルフル
ベートヴェンと同時代に活躍したヴェルフル。実はベートヴェンのライバルだった。
「モーツァルト vs クレメンティ」から「ベートーヴェン vs ヴェルフル」に時代は変わる
1790年にウィーンに移るとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを訪問しており、モーツァルトからいくらか指導を受けたものと考えられる。
1798年に、ライバル関係にあったベートーヴェンにOp.6のソナタを献呈している。しかし、ベートーヴェンは1799年にヴェッツラー(Wetzlar)伯爵邸で行われたピアノの「決闘」においてヴェルフルを打ち負かし、それ以降ヴェルフルの人気は翳りを見せることになる
ヴェルフェルは1808年にピアノソナタ Op.41を出版した。技巧的難渋さのために、ヴェルフェルは当初この曲を「過酷過ぎない Non Plus Ultra」と名付けていたが、ドゥシークが「パリへの帰還 Le Retour à Paris」という題のソナタで挑んできたのに応じ、自らの曲を「過酷な曲 Plus Ultra」と改題し、皮肉を込めて「過酷過ぎない曲」へ献呈した。
モーツァルトは勝負したクレメンティを酷評したが、ベートヴェンはクレメンティを高評価
ドゥシークはハイドンが大絶賛、そしてベートーヴェンはドゥシークが関わった英国式ピアノの恩恵を受けた
そして、このモーツァルトの薫陶を受けたヴェルフルはベートヴェンと勝負して負けた。
この話はモーツァルトとベートーヴェンの代理戦争の様相を呈しているようだ。
このヴェルフェルは「モーツァルト系」、クレメンティやドゥシークは「ハイドン・ベートーヴェン系」ということになるのだろうか。(芸術の世界をステレオタイプに二極化するのは良くないと思うが・・・・)
ヨーゼフ・ヴェルフル(Joseph Wölfl、1773年12月24日 – 1812年5月21日)は、オーストリア出身の作曲家、ピアニスト、そしてヴァイオリニストです。彼は、主にピアノ作品で知られ、古典派音楽の伝統に根ざしながらも、革新的な演奏スタイルで注目を集めました。
ヴェルフルはウィーンで生まれ、幼少期にモーツァルトの弟子の一人として音楽を学びました。また、サリエリやミハエル・ハイドンとも交流があり、音楽的な影響を受けました。1790年代後半にはウィーンで活動し、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンとも競争関係にあったことで知られています。特に、ピアノ演奏では両者がしばしば比較され、ヴェルフルはその高度な技術でベートーヴェンに匹敵する才能を持つとされました。
1798年頃にはウィーンを離れ、パリ、そしてロンドンに移住しました。彼のキャリアの多くはロンドンで展開され、特にピアノ演奏者としての評価を確立しました。彼の作品は、ソナタ、室内楽、交響曲など多岐にわたり、特にピアノソナタやピアノ協奏曲が有名です。
彼は1812年、ロンドンで亡くなりましたが、彼の音楽的遺産は後世のピアニストや作曲家に影響を与えました。
ミハエル・ハイドン?フランツ・ヨーゼフ・ハイドンじゃなくて!?
ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 – 1806年8月10日)は、オーストリアの古典派の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟。
誰よそれ>chatGPT
ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 – 1806年8月10日)は、オーストリアの作曲家で、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟です。彼は主に宗教音楽の作曲家として知られ、特にミサ曲やモテットなど、教会音楽の分野で優れた作品を残しました。また、交響曲や室内楽曲なども手掛けましたが、兄ほど有名にはなりませんでした。
ミヒャエル・ハイドンは、音楽教育者としても活躍し、モーツァルトやシューベルトなどの後進に影響を与えました。彼の作風は、兄フランツ・ヨーゼフ・ハイドンやモーツァルトに近いものがありますが、特に宗教的な情感豊かな作品が特徴的です。彼は長年ザルツブルクで活動し、ザルツブルク大司教のために多くの宗教音楽を作曲しました。
ミヒャエル・ハイドンの作品は、彼の死後しばらくの間はあまり注目されませんでしたが、20世紀に入ってから再評価され、その音楽的価値が見直されるようになりました。
兄貴と近いのは当然として、やはりモーツァルトに近いとされる。
ヴェルフルもこの二人ではなく、兄貴のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンに指導を受ければよかったのに・・と思うが、時代の違いだろうか
ミハエルの肖像画が兄貴と比べると、なんかパッとしないのは僕の思い過ごしかな・・・・
モーツァルトとミハエルには作品の貸し借り?としての関係もあるようだ。よほど作風が似ていたのかもしれない。
また、モーツァルトはM. ハイドンとかねてから親しい友人であり、同じ1783年にM. ハイドンが体調を崩してコロレド大司教から依頼されていた作曲の仕事を落しそうになっていたときには代作を自ら買って出て、急遽ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲(K. 423とK. 424)を作曲して危機を救ったこともあるため、今度はモーツァルトを助けるためにM. ハイドンの方から自分の曲を貸したという可能性も考えられた。
ハイドン弟とモーツァルト、この二人の薫陶を受けた時代的に比較的若いヴェルフル。
残念なことにベートヴェンに競演で負けたことで人気が落ちてしまったという。
でも、ベートーヴェンのライバルだったんだから
ヴェルフル「も」すごいぜ!