クレメンティすごいぜ!

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クレメンティすごいぜ!

ジャン=エフラム・バヴゼのアルバム。訳すと「ベートーヴェン関係?」

ライナーノーツがないのでその意図は何ともわからないが、勝手に予想すれば

Plays by Sonaya, By CLAMENTI、DUSSEK、HUMMEL、WOLFL

「クレメンティ」、「ドゥセック」、「フンメル」、「ヴェルフル」という四人の名前(正直なところ、僕はこの四人について全く知らない(汗)

おそらくベートーヴェンと何らかの関係のある作曲家のピアノ・ソナタ

もしくは、作曲家個人が、というより、作品自体がベートーヴェンの作品と共通点か何か関係があるのだろうと予想。

まずはそれぞれのWIkipwdiaから

CLAMENTI

https://ja.wikipedia.org/wiki/ムツィオ・クレメンティ

同世代のモーツァルトとはライバル関係、ベートーヴェンの大先輩か!?

1781年(29歳) – 12月24日ウィーンにて神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世に招かれる。ロシアのパーヴェル大公(後のロシア皇帝パーヴェル1世)らをもてなす席で、当時25歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと競演[1]する。(その後、モーツァルトは、父への手紙においてクレメンティを酷評している。)

1782年(30歳) – 以後20年殆どロンドンに留まり、ピアニスト・教師・作曲家として名を挙げ、またピアノ製作と出版(傾きかけた出版会社の社長を務め、ベートーヴェンと直接会い、一部の楽譜の出版もこなした。)にも携わる。

1813年(61歳) – ロンドンに在住する音楽家30名がフィルハーモニック協会を設立。1816年までクレメンティは常任指揮者を務める(クレメンティが指揮者を辞めた1年後、ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調「合唱付き」の契機となる交響曲の委嘱をする)

クレメンティは約100曲のピアノソナタを残しており、とくに1780年代にウィーンとロンドンで書かれたソナタは古典派音楽の交響的ソナタとしてベートーヴェンの先例をなす[2]。実際、ベートーヴェンは、ピアノ曲に関してはモーツァルトの作品よりもクレメンティの方がピアニスティックで素晴らしいと評価している。 

1781年、モーツァルトは、父への手紙においてクレメンティを酷評している。

1780年代にウィーンとロンドンで書かれたソナタは古典派音楽の交響的ソナタとしてベートーヴェンの先例をなす

1781年は、1756年生まれのモーツァルトは25歳、クレメンティは29歳で少し年上だがほぼ同年代のライバルである。おそらく皇帝の前でピアノ即興曲を弾いたと思うが、若きモーツァルトがクレメンティを酷評したとのこと。モーツァルトの性格に対する偏見を恐れずに書くと、その場の評価はクレメンティの方が上だったのではなかろうか。

1791年に夭折した「神童」モーツァルトにとって、1780年代の作品は後期になると考えるとすれば、グレン・グールドのモーツァルト評価(モーツァルトは死ぬのが遅すぎた)に相通じるところあるのかもしれない。

そう考えると、ベートーヴェンがクレメンティのピアノ作品をモーツァルトよりも高く評価しているところなど納得がいく。

「ベートーヴェンは、ピアノ曲に関してはモーツァルトの作品よりもクレメンティの方がピアニスティックで素晴らしいと評価している。」

「ピアニスティック」と評価しているところから、鍵盤楽器として「強弱」や「残響の長さ」(ダンパーの解放)など、クレメンティのピアノ曲は1980年代としては多様な表現を意識した「先進的」「革新的」な鍵盤曲だったのではなかろうか。

モーツァルトとの関係

ムツィオ・クレメンティとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの関係は、音楽史における興味深いエピソードの一つであり、特に彼らの競争とモーツァルトのクレメンティに対する評価が注目されます。

ウィーンでの競演

1781年12月24日、ウィーンで開かれたハプスブルク帝国のヨーゼフ2世の宮廷で、クレメンティとモーツァルトは直接対決を行いました。これは、当時のウィーンの音楽界で非常に話題となった出来事です。二人の作曲家は、即興演奏やピアノの技巧を競い合い、ヨーゼフ2世と宮廷の聴衆の前で演奏を披露しました。

クレメンティは、当時ヨーロッパで広く知られていたピアニストであり、特に技巧的な演奏で高く評価されていました。しかし、モーツァルトはこの競演の結果に満足していなかったようで、後に彼の手紙の中でクレメンティの演奏を批判的に評しています。モーツァルトは、クレメンティの演奏を「機械的で、魂がない」と表現し、彼の作曲スタイルを「うるさく、華やかさだけを追求している」と批判しました。

音楽的影響と評価

モーツァルトはクレメンティの技術的な能力を認めていたものの、彼の音楽性については否定的な評価を下していました。一方、クレメンティはモーツァルトの音楽を尊敬しており、特に彼の表現力や作曲技法に影響を受けていました。

興味深いことに、モーツァルトは後にクレメンティの作品から影響を受けた可能性が指摘されています。例えば、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲に出てくる一部の旋律が、クレメンティのソナタ Op.24 No.2 の主題と類似していることが知られています。このことから、モーツァルトが無意識のうちにクレメンティの影響を受けていたのではないかという説もあります。

結論

クレメンティとモーツァルトの関係は、競争と批評の要素が強いものでしたが、それによって両者の作品に相互作用が生じました。モーツァルトはクレメンティの演奏スタイルに批判的であった一方で、クレメンティはモーツァルトを尊敬し、その影響を受けていました。この対立的な関係が、彼らの音楽にどのような影響を与えたかを考えることは、音楽史において興味深いテーマです。

ちなみに、クレメンティはハイドンとは直接的な交流はなかったようだ。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンとムツィオ・クレメンティは、18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍した音楽家ですが、直接的な交流や協力の記録はほとんどありません。しかし、彼らの音楽的な影響や間接的なつながりはあります。

1. スタイルの違いと共通点

  • ハイドンは古典派音楽の基礎を築いた作曲家の一人であり、交響曲や弦楽四重奏曲など、形式的に整った作品を多く残しました。
  • クレメンティは主にピアノ曲で知られ、「ピアノの父」とも呼ばれるほどピアノ技術の発展に寄与しました。彼の作品は、ハイドンと同じく古典派に分類されますが、特にピアノ曲においてはロマン派への橋渡し的な要素も含んでいます。

2. 共通する音楽的影響

ハイドンとクレメンティはともに、古典派音楽の発展に大きな影響を与えました。特に、クレメンティは若い頃にハイドンやモーツァルトの影響を受けたとされ、彼らと同じ時代に活動していたため、彼の作曲スタイルにはハイドンの影響も見られる可能性があります。

3. モーツァルトを通じた関係

クレメンティは、モーツァルトとライバル関係にあったことで有名ですが、モーツァルトとハイドンは非常に親しい関係にありました。モーツァルトはハイドンに敬意を払い、彼の弦楽四重奏曲を「ハイドン四重奏曲」として献呈しています。このようなネットワークを通じて、間接的にハイドンとクレメンティの関係性が考えられることがあります。

4. 演奏や教育面での影響

クレメンティは教育者としても知られ、多くのピアノ教師に影響を与えました。彼のピアノ教則本は長く使われ、その中で古典派作曲家(ハイドンを含む)の技術が基礎として学ばれたため、ハイドンの影響も間接的に彼の教え子に伝わったかもしれません。

このように、ハイドンとクレメンティは同時代に活躍しつつも、音楽の異なる分野に注力していました。直接的な関係はないものの、彼らの音楽的影響や共通の時代背景を通じて、お互いに意識し合う存在だった可能性はあります。

クレメンティが「時代の大御所」ハイドンとの交流がなかったとしたら、不思議な感じがする。ハイドンが「交響曲の父」呼ばれているが故の関係の希薄さだろうか。

クレメンティも(ハイドンほどではないが)多くの「交響曲」を残している・

しかし、彼自身、ピアノ製造会社を経営しており、「ピアノの父」とも呼ばれるほどピアノ技術の発展に寄与していたらしい。ピアノという技術的な「道具」の性能を最大に引き出すべく、ピアノ作品の構想をしていとしてもおかしくない。

モーツァルトが(ただの負けず嫌いゆえにか?)クレメンティの演奏を「機械的で、魂がない」と表現し、彼の作曲スタイルを「うるさく、華やかさだけを追求している」と批判しているのもわかる気がする。

じゃあ、前時代の大バッハなどのバロック音楽は「機械的で、魂がなく、華やかさだけ」には映らなかったのだろうか?

chatGPTの説明

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、バロック音楽、特にヨハン・セバスティアン・バッハを非常に高く評価していました。彼はバロック音楽の影響を受けながらも、古典派音楽の形式や表現を発展させた作曲家として知られています。以下は、モーツァルトとバッハやバロック音楽との関係についての詳細です。

1. バッハへの深い敬意と影響

モーツァルトは、J.S.バッハを「大バッハ」として敬愛していました。特にバッハの対位法やフーガ形式に魅了され、彼の作品を学びました。

  • モーツァルトがバッハの作品を深く知るきっかけは、1782年にゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵と知り合ったことでした。ファン・スヴィーテンはバロック音楽の熱心な愛好者であり、モーツァルトにバッハやヘンデルの楽譜を見せ、彼を導きました。この交流を通じて、モーツァルトはバッハの音楽にさらに深く触れ、特にフーガ技法に感銘を受け、自らの作品にも取り入れるようになりました。
  • 例えば、モーツァルトの『レクイエム K.626』『ハ短調ミサ曲 K.427』、また彼の弦楽四重奏曲や交響曲の中には、バッハの対位法の技法が感じられる部分があります。また、彼は『平均律クラヴィーア曲集』の研究を通じて、自らの作曲技法をさらに磨いたとも言われています。

2. 他のバロック作曲家への評価

バッハだけでなく、モーツァルトは他のバロック作曲家、特にゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルにも強い関心を持っていました。ファン・スヴィーテンを通じてヘンデルの作品にも触れ、その後モーツァルトはヘンデルのオラトリオを編曲する作業を行いました。これは、モーツァルトがヘンデルの作品を深く理解し、それを自身の音楽に取り入れようとした証です。

  • モーツァルトは1789年に、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』を編曲し、管弦楽の編成をより豊かにするなど、当時の演奏スタイルに合った形で手を加えました。この編曲からも、モーツァルトがバロック音楽を尊敬し、その要素を自身の作品に融合させていたことがわかります。

3. バロックと古典派の融合

モーツァルトの作品には、古典派特有の明快な構造とともに、バロック音楽の対位法的な要素和声の深みが見られます。彼はバロック音楽の複雑な技法を学びながら、それを単なる模倣にとどめず、古典派の形式にうまく融合させました。

  • 特にフーガの技法は、モーツァルトの後期作品に顕著です。例えば、『弦楽五重奏曲 ハ短調 K.406』『ピアノソナタ ハ長調 K.309』などでは、バッハ的なフーガの影響が見られます。

4. 家族との影響

興味深いことに、モーツァルトの父レオポルト・モーツァルトもバロック音楽に通じていました。彼自身も作曲家であり、バロックの影響を受けた作品を作っています。このように、モーツァルトは幼い頃からバロック音楽に触れて育ったことも、彼の後の作品にバロック的な要素が見られる理由の一つです。

まとめ

モーツァルトは、バロック音楽に深い敬意を払い、特にバッハヘンデルから多くの影響を受けました。その結果、彼の作品には対位法やフーガの技法が取り入れられ、古典派音楽における革新とバロックの伝統が見事に融合しています。バロック音楽は、モーツァルトの作曲活動にとって単なる過去の遺産ではなく、彼の創造力を刺激し続けた源でした。

ふむふむ・・・神童の感性は凡人には知る術もないが、クレメンティとの共演後の批判は、単に「負けず嫌い」だった可能性もありそうだ(笑

話を戻して、クレメンティとベートーヴェンについて

ベートーヴェンとの関係

ムツィオ・クレメンティとルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの関係は、音楽史において興味深いエピソードの一つです。彼らは共に古典派音楽の作曲家であり、ピアノ音楽の発展に大きく寄与しましたが、その関係は友好と競争の両面がありました。

クレメンティの影響とベートーヴェンの評価

ムツィオ・クレメンティは、イタリア生まれの作曲家であり、ピアニストとしても非常に優れた才能を持っていました。彼はピアノソナタの形式を確立し、ベートーヴェンをはじめとする多くの作曲家に影響を与えました。ベートーヴェン自身、クレメンティのピアノ作品を高く評価しており、特にクレメンティの技巧的な演奏や作曲技法に影響を受けました。

ベートーヴェンはクレメンティの作品を「ピアノの学びのための優れた教材」として見ており、クレメンティのピアノソナタを練習していたと言われています。また、ベートーヴェンは自らの作品集をクレメンティに献呈することを検討したこともあります。

ロンドンでの出会いと競争

1800年頃、クレメンティはロンドンでピアノ製造業者としても成功を収めており、同時に優れた演奏家としても知られていました。ベートーヴェンはクレメンティの名声を知っており、二人は間接的にライバル関係にありました。

クレメンティとベートーヴェンが実際に会ったのは1799年のウィーンで行われた演奏会です。この演奏会では、クレメンティとベートーヴェンが直接競い合う形となり、それぞれが即興演奏や既存の作品を披露しました。伝えられるところによれば、この対決は引き分けに終わり、双方が互いの才能を認め合ったと言われています。

後の影響

その後、クレメンティはベートーヴェンの作品を出版するなど、彼のキャリアを支援しました。特にベートーヴェンのピアノソナタをロンドンで出版したことで、ベートーヴェンの名声がさらに高まりました。ベートーヴェンもクレメンティのピアノに対するアプローチや技術に影響を受け、彼自身のピアノ作品にその影響が反映されています。

まとめると、クレメンティとベートーヴェンの関係は、ライバルでありながらも互いに尊敬し合うものであり、その相互作用が彼らの作品に良い影響を与えました。

「ベートーヴェンはクレメンティの作品を「ピアノの学びのための優れた教材」として見ており、クレメンティのピアノソナタを練習していたと言われています。

「また、ベートーヴェンは自らの作品集をクレメンティに献呈することを検討したこともあります。」

「献呈」なんて言葉、音楽家がパトロン貴族に敬意を表するような単語だ。

こうなると、クレメンティはベートーヴェンを直接指導しないまでも、ほぼ「ピアノ作品の先生」、とか「クレメンティに薫陶を受けた」とか言ってもおかしくなさそう。

やはり

クレメンティすごいぜ!

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