ダットサン(日産自動車)

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ダットサン(日産自動車)

「日産自動車株式会社」は創立90周年を迎えるようです

日産自動車 創立90周年記念 日産サクラ 90周年記念車、登場。

脱兎カー(DAT CAR)

ダットサンの由来は日産自動車の源流である、橋本増治郎が設立した快進社までさかのぼる。1914年大正3年)に完成した乗用車には、支援者であった田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎のそれぞれの頭文字であるDATと、逃げるウサギのように非常に速いことのたとえである「脱兎(だっと)のごとく」にかけて、脱兎号(DAT CAR)と名づけられた[1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/ダットサン

僕は、日産の「日」は「DAT」つまり「DAY」だとばかり思っていましたが、全然違ったようです

1916年(大正5年)にはダット41型が誕生するが、乗用車の製造は苦戦を強いられ、軍用保護自動車トラック)の製造へ移行する。1924年(大正13年)にはダット41型3/4トントラックが軍用保護自動車検定に合格したが、1925年(大正14年)に快進社を解散し、ダット自動車商会となった。

一方、1919年(大正8年)に久保田権四郎らによって設立し、ゴルハム号やリラー号といった乗用車を製造していた実用自動車製造も同じく苦境に立たされていた。そして、1926年(大正15年)にダット自動車商会と実用自動車製造が合併し、ダット自動車製造が設立した。この実用自動車製造には、のちに戸畑鋳物(現・プロテリアル)の鮎川義介に招聘されるウィリアム・ゴーハムが当初技師長として就任しており、その助手に就いていたのが久保田鉄工所(現・クボタ)出身の後藤敬義だった。

ダット自動車製造は、軍用保護自動車を製造する傍ら、1929年(昭和4年)頃から後藤敬義技師を中心に小型乗用車の試作を開始。1930年昭和5年)に試作車が完成し、車名を「DATの息子」の意味のDATSON(ダットソン)とした。DATの定義は、Durable(耐久性がある)、Attractive(魅力的な)、Trustworthy(信頼できる)、に改められた[1]

ダットソン号は量産化を念頭に開発されており、戸畑鋳物および日本産業の鮎川義介は1931年(昭和6年)にダット自動車製造を戸畑鋳物傘下に収める。1932年(昭和7年)には、DATSONの“SON”が日本語の“損”に聞こえ縁起が悪いということから、英語で同音のSUN(太陽)に変え、DATSUN(ダットサン)と改称した(命名はダットサン商会の吉崎良造[1])。

ところが、軍用保護自動車の製造メーカーが統合されることとなり、1933年(昭和8年)にダット自動車製造は石川島自動車製造所(現在のIHIから独立、後のいすゞ自動車。)と合併して自動車工業となった。鮎川はダットサンの商標および旧ダット自動車製造大阪工場を手に入れ、1934年(昭和9年)に日産自動車へ社名を変更した。

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