物の価値の比率=理解するのが難しい件
上衣の如き商品種類が、リンネルの如き他の商品種類に対して等価の役割の役をつとめるとしても、随って、リンネルと直接に交換され得る形態に在るという特殊の性質が上衣に与えられるとしても、上衣とリンネルとの交換され得べき比率は、それだけではまだ確かめられたことにならぬのである。
資本論第一巻第一篇第一章(三)A(3)等価形態
「価値の等価方程式があるのに、それだけでは確かめられたことにならない」なぜか?
おそらくこういうことではないか?
例えば、「貨幣」を介して、リンネルと上衣を交換した場合。
リンネルは1000円で交換できたとしても、上衣はいくらで交換できるかわからない。
方程式では、2倍の量、2000円で交換できると思いきや、貨幣市場では3000円、又は1500円で交換されるかもしれないということかもしれない。
つまり、取引市場などで別の物(貨幣に限らない)を介すると、リンネルと上衣の価値の比率が変わってくるかもしれない。
したがって、リンネルと上衣の比率が確定したことになるわけではないといことかもしれない。
然しそれは自分自身の価値量、即ち上衣の価値量を言い現し売るものでない。
この事実、即ち等価なるものは、価値方程式上つねに一の物の、一の使用価値の、単純なる形態を有するに過ぎぬという事実の皮相的解釈こそ、かのベーリー並びに彼れの先駆者たり後継者たる多くの人々をして、価値表章の中に単なる量的比率を見るの錯誤に陥らせたものである。
資本論第一巻第一篇第一章(三)A(3)等価形態
等価方程式は、二つの商品の価値の比率を表しているのではなく、単なる量の比率を表しているに過ぎないということだろうか。
商品の価値は、労働によって凝縮されて内在しているものであるから、使用価値から量的にその比率を決めているだけでは、二つの本当の価値の比率を表したことにならないということか。
さらに、こういうことも言っている。
而も事実は寧ろ、商品の等価形態なるものは、何等の量的価値決定をも含むものではない。
・・・等価形態を考察する際我々の注意に上る第一の特色は、使用価値が某反対物たる価値の現象形態になるという事実である。
同上
商品の等価方程式は、量的な価値さえ決定していないという。
上に最初に書いた、市場取引で別の物を介した場合は、量的な価値も決定されないということかもしれない。