イギリス、インド、清国の三角貿易
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茶・アヘン・綿織物の三角貿易
三角形の頂点にあたる地域は、イギリス・インド・清の3つの国であり、実態は為替取引を介したイギリス東インド会社による中継貿易であった。
- 清 → イギリス(茶)
- イギリス → インド(綿織物)
- インド → 清(銀、のちにアヘン)
元々、辺にあたる貿易ルートは実際にはイギリスとインド、イギリスと清のそれぞれ二国間の両方向通行であり、三角貿易の形状はしていない。
また、インドを介した手形の流通によって三角形の形をしているが、インド国内での生産が正式にはアヘン以外にないことから東インド会社の中継貿易ともいえる。
当初、イギリスとインドの2国間貿易ではイギリスの貿易黒字、イギリスと清の2国間貿易ではイギリスの貿易赤字が続いていた。
しかしイギリスは、対インド黒字で対清赤字を穴埋め出来なかったことから、銀本位制によって国際通貨の地位にあった銀がイギリスから清に流出していた。
この時期は既に為替手形による国際貿易が成立していたため、イギリスから清への支払いは、為替手形を利用していた。
つまり、手形交換所があるロンドンで手形を振出し、為替手形をインドへ送ってインドで銀と交換してその代金を清に支払っていた。
このため、インドと清の二国間貿易ではインドの貿易赤字となってインドから清へ銀の流出が続いていた。
この時代は、金銀の流出は国家の損失とみなす「重商主義」による政策が主張されていた。
そこで、インドの対清赤字の解消のために、インドにおいて麻薬であるアヘンを製造し、清へ密輸する活動が活性化した。
そして、清で麻薬であるアヘン消費が拡大してインドへ銀が戻り、イギリスの対インド貿易黒字によって銀がイギリスへ還流するようになった。
この3カ国を跨ぐデイヴィッド・サスーン(バグダット出身、アヘン貿易で活動したユダヤ商人)のような貿易商人も台頭した。
清はこの取引において大量の銀流出に見舞われ、アヘン密輸の取締り強化を図り、それが1840年のアヘン戦争への端緒となった。
また、この3カ国は労働市場において、奴隷制度が廃止された後のヨーロッパ諸国の多くの植民地やアメリカで労働力が不足を補うために、苦力貿易も行っていた。