義務教育のあり方
アダムスミスはいう
国による義務づけでは、国民のほぼ全員に基礎教育を受けるよう義務づけるために、これらの分野の試験に合格した後でなければ、同業組合の組合員になることも農村や都市で営業許可を得ることもできないと規定する方法がある。
国富論第五編第一章第三節第二項
ギリシャとローマの共和国はまさにこれらの方法を使っており、武芸の習得を支援し、奨励し、国民のほぼ全員に武芸を習得するように義務づけることで、市民の尚武の精神を維持した。
国による奨励では、成績優秀者に少額の資金を与え、表彰した。
オリュンピア、イストミア、ネメアの競技大会で受賞すれば、受賞者だけでなく、家族や一族まで賞賛を受けた。
国富論第五編第一章第三節第二項
日本国憲法では、義務教育はすべての子どもが教育を受ける権利を保障し、国と保護者は子供に教育を受けさせる義務を負っている(日本国憲法第二十六条)。
日本では、現実に一度も小学校中学校に行っていない子供であっても、一応受けているものとみなされる(未確認)。
たとえば小学校に入学当初から来ていない子どもがいたとすれば、それは明らかに保護者の責任であり、児童相談所など行政上の権限をもった公務員によって何らかの対応が行われるのが現実であろう。
そして、社会生活に必要な最低限の知識は習得できるような基礎教育の環境が与えられるものと想定でき、この措置は日本国憲法に基づく行政上の義務といってよいだろう。
また、親の責任ではない不登校は、早くても小学校中学年程度から発生しているように思える。そうすると日本語の読み書きや四則演算など、社会生活において最低限必要な基礎学力は備えているものと考えてよいのではないだろうか。
さて、問題はギリシャやローマのような義務教育の支援の方法である。
もちろん、現代においては義務教育の内容は、「武芸」ではなく「基礎学力」もしくは「役立つ技能・スキル」であり、「尚武の精神の維持」とは「技能・スキルの向上心の維持」ということになる。
「技能・スキルの向上心」の維持で、すぐに思いつくのは、マズローの5段階の欲求のうちの5番目「自己実現欲求」である。
つまり、義務教育として国が支援・奨励すべきなのは、国民が単に社会生活に必要な基礎知識を習得するという受動的なものではなく、より積極的・自主的な「技能・スキルの向上心」を維持するという思考、精神を育てることなのではないだろうか。
私は、かねてより「学力」とは「学ぶ力」という文字通りの意味にとらえたらいいと考えていた。
つまり、受験勉強で習得した問題解答技法や、頭の中に暗記した知識は「学力」とはいえず、「学ぶ力」つまり貪欲に知識を習得しようとする精神・意欲の存在と、そこから得られる知識の本質を理解する能力こそが「学力」だと考えるのである。
そうだとすれば、現在の日本の義務教育のあり方として、これから日本が外国に伍していけるような本当の意味での「基礎学力」を習得できるよう、国は支援、奨励をしているのだろうか。