日本人のリテラシーの欠如
アダムスミスは分業から導いているが、ルールどおりに言われたことだけを無難にこなしていく現代の日本人に通じるところがある
分業が進むとともに、労働で生活している人、つまり大部分の人の仕事は、ごく少数の単純作業に限定されるようになり、一つか二つの単純作業を繰り返すだけになることも多い。
そして、大部分の人はかならず、通常の仕事から知識を獲得している。
ごく少数の単純作業だけで一生を過ごし、しかも、作業の結果をおそらく、いつも同じかほとんど変わらないのだから、難しい問題にぶつかることもなく、問題を解決するために理解力を活かしたり、工夫をこらしたりする機会はない。
このような仕事していると、考え工夫する習慣を自然に失い、人間としてそれ以下になりえないほど、愚かになり無知になる。
頭を使っていないので、知的な会話を楽しむことも、そうした会話に加わることもできなくなるだけでなく、寛大な感情、気高い感情、優しい感情をもてなくなり、私生活でぶつかるごく普通の義務についてすら、多くの場合に適切な判断をくだせなくなる。
国富論第五編第一章第三節第二項青少年教育のための機関の経営
『私生活でぶつかるごく普通の義務についてすら、多くの場合に適切な判断をくだせなくなる。』
いわゆる、あらゆる場面での「リテラシーの欠如」のことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/リテラシー
自分の頭で考えることができず、世間の流れにとりあえず乗っていればそれなりの生活はできると思い込んでいる。
しかし、それは失われた30年という「停滞」の時代から「没落」の時代への道筋だろう。