カトリーヌ=ド=メディシス
https://fr.wikipedia.org/wiki/Catherine_de_Médicis
https://ja.wikipedia.org/wiki/カトリーヌ・ド・メディシス
1519年4月13日 – 1589年1月5日
キャサリン(英)、エカテリーナ(露)、カテリーナ(伊)
フランス王(#10)アンリ2世の王妃。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母。
1559年、馬上槍試合で夫アンリ2世が事故死、長兄フランソワ2世は15歳(成人)で即位するが病弱で翌年に死亡した。
1561年、10歳のシャルル9世は未成人で即位したため、母カトリーヌが摂政として実権を担うことになる。
メディチ家
https://ja.wikipedia.org/wiki/メディチ家
https://www.y-history.net/appendix/wh0902-019.html
イタリア・フィレンツェの銀行家、政治家、15世紀のルネサンス期の芸術・学問の保護者、フィレンツェの実質的な支配者(僭主)。イタリア戦争期(1494〜1559年)では追放と復活を繰り返すが、1569年、16世紀から19世紀にかけて北イタリアで神聖ローマ帝国にもハプスブルク家の本領にも含まれずに存在したトスカーナ大公国の君主となる。
フランス宗教戦争(ユグノー戦争)
1562年 – 1598年
フランスのカトリックとプロテスタントが40年近くにわたり、休戦を挟んで8回戦った。
ドイツで始まった宗教改革(1517年、ルター)では、1533年にプロテスタント宣言をしたカルヴァンがフランスとフランスに大きな影響を与えた。プロテスタントはカトリック側からユグノーと呼ばれ、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。
ユグノーには貴族も加わっており、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。
フランソワ1世(在位:1515年 – 1547年)は神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯の反乱を支援しており、フランス国内における信者に対して寛容であった。
1562年1月17日、カトリーヌ・ド・メディチは、1月勅令を公布、押収したすべての礼拝所を返すことを条件に、プロテスタントの良心の自由と礼拝の自由を実際に許可したが、プロテスタントとカトリック教徒の間の強い対立のために失敗した。
1562年にカトリックギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内戦になった。
1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。
1588年にアンリ3世はギーズ公アンリを暗殺(英語版)、病床にあったカトリーヌは息子の愚行を嘆き、内戦を終結できないまま死去する。
1589年、カトリックのギーズ公アンリ、次いでアンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶したが、パリではカトリックの勢力が強く、プロテスタント(ブルボン家)の王を認めなかった
ブルボン家アンリ4世はカトリックに改宗、フランス・ブルボン朝(カトリック)が興った。
一方でナントの勅令(1598年)を発して、プロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認め、戦争は終結した
この戦争はカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有している。