ポーランド分割
第一次ポーランド分割
https://ja.wikipedia.org/wiki/第一次ポーランド分割
https://en.wikipedia.org/wiki/First_Partition_of_Poland
1772年に行われたポーランド・リトアニア共和国の最初の分割。
第一次ポーランド分割は、ロシアの伸長に伴う周辺国の勢力均衡策により発生した。
ロシア帝国、プロイセン王国、ハプスブルク帝国(オーストリア)によりその領土を侵食された。
七年戦争によるヨーロッパ勢力の変化
https://ja.wikipedia.org/wiki/七年戦争
ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが契機となった世界大戦。
フランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために同盟を組んだが、プロイセンは戦争の勝利で大国と化し、フランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招いた。
ロシアはフランスのポーランドにおける影響力の排除という無形の利益を得た。このため、1772年の第一次ポーランド分割はロシアとプロイセンが主導したものであり、オーストリアは嫌々ながらも参加、フランスは完全に無視された。
ロシア帝国のポーランド進出と和平提案
17世紀後半から18世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパ有数の大国の地位から転落し、ロシアは積極的にポーランドの国王自由選挙やセイム(議会)に介入していた。
1762年、ロシア宮廷でのクーデター(ロシア語版)によってエカチェリーナ2世が即位し、元愛人のスタニスワフ2世アウグストをポーランド王に即位させ、ポーランドを自らの保護国とみなしていたが、ポーランド国内ではロシアの影響力を払拭しようとするバール連盟による戦争が続いて国土が荒廃していた。
オーストリアは、露土戦争でオスマン帝国を圧倒したロシア帝国が領土的野心を持ってハプスブルク帝国を脅かしたため、ロシアとの交戦を検討していたため、両国と友好関係を持っていたフランスが介入し、領土補償による解決を提案した。
プロイセン・フリードリヒ2世は、ロシア・ハプスブルク帝国間で戦争が勃発すれば、七年戦争で疲弊した状態で露普同盟に基づいて大戦争に巻き込まれることになるため、ハプスブルク帝国、プロイセン、ロシアの三国によるポーランド国境地帯の一斉併合を提唱した。
ロシアはスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを支援したが、あまりに独立志向が強いため、保護国としてのポーランドの有用性が低下したと判断した。
よって、周辺三国は無政府状態のポーランドの安定を回復するという名目(バール連盟の存在が格好の正当化の種とされた)のもとに国境を越えてポーランド周縁部を制圧した。
1772年9月22日、三国が分割条約を批准した。
ヨーロッパ各国の反応は極めて冷淡で、分割に反対の声を上げたのはエドマンド・バーク(イギリス)ら少数だった。ポーランドに救いの手が差し伸べられることがないまま、三国の連合軍がワルシャワを占領し、セイム開催を強制した。
ポーランドは1773年に分割セイムを開き、分割を承認せざるを得なかったセイムは条約に調印して、失ったすべての領土に対する請求権を放棄した。