ポーランド・リトアニア連合
1385年、ヤギェウォ朝(1572年断絶)が成立、ポーランド、リトアニアは続く3世紀(14〜16世紀)にわたってヨーロッパにおける最も強大な「帝国」の一つになり、精力的に近隣(遠方はロシアまで)に領土を拡大していった。
ポーラン・リトアニア王国(ヤギェウォ朝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤギェウォ朝
1386年にリトアニア大公国の大公ヨガイラにより、ハンガリー王をも兼ねたポーランド王ルドウィク1世(ハンガリー王としてはラヨシュ1世)を継承した女王ヤドヴィガ(在位:1384年 – 1399年)との結婚により成立した。
ポーランドは、バルト海沿岸部に陣取るドイツ騎士団の圧迫に対抗するために、リトアニア大公ヨガイラをポーランド女王ヤドヴィカの夫とし、1386年にヨガイラがキリスト教に改宗してポーランド王ヴワディスワフ2世として即位した。
ポーランドとリトアニアは同君連合(クレヴォの合同)となった。
ヴワディスワフ2世はグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団に勝利して服属させる一方、南へは黒海方面への領土拡張に成功を収め、ポーランド・リトアニア合同国家の全盛期を築き上げた。
1569年、ポーランド王国とリトアニア大公国はルブリン合同を結び、共通の君主を戴く人的同君連合からひとつの国家体制である物的同君連合「ポーランド・リトアニア共和国」に発展した。
ポーランド・リトアニア共和国
ヤギェウォ朝は1572年に断絶、翌年からポーランド王国は選挙王制(国王自由選挙)となり、シュラフタ(貴族階級)はヤギェウォ朝時代からの特権に加えて国王の選挙権を握った(貴族共和政)。この頃、ポーランドは大航海時代を迎えて人口増加著しい西ヨーロッパへの食料輸出が盛んで空前の好景気を迎えていた。
ポーランド・リトアニア共和国の領土は、西では神聖ローマ帝国の境まで、東では現ベラルーシ・ウクライナ中部・ロシア西部にまで及ぶ大国であった。
17世紀に入ると、ウクライナ・コサックによる共和国への叛乱とユダヤ人大虐殺、新興のスウェーデン王国・ロシア・ツァーリ国の侵攻が続き、さらにオスマン帝国、スウェーデン戦争(大北方戦争)を起こし国家財政は疲弊、新大陸から輸入された安価な農産物が大量に欧州市場に流入し、食料輸出に大きく頼っていたポーランドの収支バランスは黒字から赤字に転落していく。
17世紀の混乱によってポーランドの国力は急速に衰微し、ポーランド史上「大洪水時代」と呼ばれる。
18世紀、国威復活を望むスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキをはじめとした改革勢力によって、1791年にポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパ史上初の民主主義成文憲法(5月3日憲法)を制定した。
ポーランド分割
ロシア、プロイセン、オーストリアの三大国は、ポーランド5月3日憲法を絶対王政に対する脅威と感じ、シュラフタなど反民主主義グループのポーランド大貴族(マグナート)を取り込み、1772年、1793年、そして1795年の3度にわたってのポーランド分割を敢行した。
最後の分割でポーランドの国家として領土そのものは完全に地上から消し去られ、スタニスワフ2世は退位、ポーランド王国は消滅した。