チャールズ二世(スチュアート朝#3
)
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_II_of_England
https://ja.wikipedia.org/wiki/チャールズ2世_(イングランド王)
https://www.y-history.net/appendix/wh1001-064.html
1630年5月29日 – 1685年2月6日
王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1660年5月29日 – 1685年2月6日)
イングランド共和国・亡命期
1646年、清教徒革命(イングランド内戦)の危険が高まったとき、母たちとフランスに亡命し、1648年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダのハーグに住んだ。
1649年1月30日、イングランドを離れなかったチャールズ一世は処刑(英語版)され、イングランドは護国卿オリバー・クロムウェルらが指導する共和国となった。
1649年2月5日、スコットランドはチャールズをスコットランド王として推戴すると宣言した、6月にスコットランドに上陸した。
1651年1月1日にスクーンで正式に戴冠式を挙げたが、クロムウェル軍に敗れ(ウスターの戦い)、再び大陸に亡命した。
1654年、イングランド共和国は、第一次英蘭戦争(1652年 – 1654年)でウェストミンスター条約において、オランダのオラニエ=ナッサウ家(ウィレム2世)のステュアート家への援助が絶たれた。
フランスもフランス・スペイン戦争で、イングランド共和国に近付くことを考えたため、チャールズはフランスを去ってドイツのケルンに亡命した。
1656年、チャールズはフランス・イングランドの敵国となったスペインと同盟を結び、スペイン領ネーデルラントのブリュージュへ宮廷を移し、後にブリュッセル(スペインの道)に移動した。
1659年、フランス・スペイン戦争のピレネー条約に加わろうとしたが失敗、フランスはイングランド共和国との同盟を継続、スペインも関心がイングランド共和国との争いよりもポルトガル王政復古戦争の鎮圧へ移った。
王政復古
1658年、クロムウェルが死去し、共和国は混乱した。
1660年、スコットランドが進軍して長期議会を解散、イングランド王党派とチャールスに復帰を要請した。ブレダ宣言を発して仮議会に受諾されチャールズはロンドンに入城してイングランド王チャールズ2世となった。