イギリス東インド会社

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イギリス東インド会社

https://ja.wikipedia.org/wiki/イギリス東インド会社

1765年と1805年のインド、東インド会社が支配する領土をピンクで示している

https://en.wikipedia.org/wiki/Company_rule_in_India

アジア貿易を目的に設立された、イギリス勅許会社である。

勅許会社は、主にイギリスオランダなどの西欧諸国で国王女王勅許または国家行政の特別許可状をもらい設立された貿易を主とする会社である。そうした経済活動はリスクが大きかったので、会社設立の見返りとして経済貿易に関する独占権を与えられた。

特に綿インディゴ染料砂糖スパイスソルトペトル紅茶アヘンなどの基本的な商品で、1700年代半ばから1800年代初頭にかけて世界の貿易の半分を占めました。

ローマ時代から見られる西部地金の東への流出の傾向を逆転させ、世界的な貿易収支に大きな影響を与えました

厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、東インド貿易商合同会社(合同会社)という三つの会社の総称である。


東インド会社設立の背景

1577年、エリザベス一世ドレイクの襲撃遠征から始まる。

フランシス・ドレイクの周回航海

フランシス・ドレイクは、金と銀を求めて南アメリカのスペインの入植地を略奪するために出発、大西洋を横断しながらスペインの船とポルトガルのカラベルを捕獲、南アメリカの西海岸を航海しスペインの港を略奪した。

北に進み、大西洋に戻るルートを見つけることを望んで、ドレイクはヨーロッパ人よりもアメリカの西海岸をさらに航海し、現在のカリフォルニアに上陸し、イングランドの土地を主張し、ニューアルビオンと名付けました。

しかし、大西洋に戻るルートを見つけることができず、1579年7月に太平洋を西に航海しました。

モルッカセレベスジャワを就航し、喜望峰を回り、最後にアフリカの西端を回った。ドレイクは、リネン、金、銀と引き換えに、クローブやナツメグを含むエキゾチックなスパイスと大量の宝物を持って、1580年9月にイギリスに戻った。

さらに、オランダ(プロテスタント)とアイルランド(カトリック)の反乱に対して軍事介入し、英西戦争(1585–1604)が勃発する。

イギリスは、1587年にカディスで勝利を収め、1588年にスペイン艦隊を撃退したが、ドレイク・ホーキンス遠征(1595年)、エセックス・ローリー遠征(1797年)は失敗した。

英西戦争は、スペインのフィリップ3世とイングランドのジェームズ1世の間のロンドン条約(1604年) によって、軍事介入を中止することに合意し、イギリスは公海の私掠船を終わらせた。


レヴァント会社

1581年、エリザベス一世時代にオスマン帝国との貿易を認められた特許会社(レヴァント会社)が設立され、地中海モスクワ経由で地中海東岸地域のアジア(東方、レヴァント)貿易を独占していた。

11世紀の十字軍運動の時代に、北イタリア商人と小アジア(現在のトルコ)との間でレヴァント貿易が行われていた。

1595年オランダジャワ島バンテンへ船団を派遣し成功すると、自らのアジア貿易の独占事業が崩れることを危惧した。


旧東インド会社(1600〜1709年)

1601年、レヴァント会社の人間が中心となり、それまでの組合形式(パートナーシップ)の会社とは異なる自前の従業員を持つジョイント・ストック・カンパニー(無限責任・合本会社)として、(旧)東インド会社が設立された。

その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返す。

旧イギリス東インド会社は、航海ごとに出資者を募りその売り上げ全てを出資者に返却するジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)で、固有の営業資本を保有し、継続して事業を続ける会社形式ではなかった。

一方、オランダ東インド会社は合資会社(株式会社に近い)で、営業資本を保有して利潤のみを配当することによって、大規模かつ継続的に商業活動を営むことができたので、イギリス東インド会社は対抗できなくなってきた。

1623年のアンボイナ事件によってイギリスは東南アジアでのオランダとの競合を避け、活動拠点をインド亜大陸イランサファヴィー朝)へ移していった。

「インド亜大陸」とは、ユーラシア大陸の一部、「インド半島」とも呼ばれ、西側のパキスタンやアフガニスタン、東のネパール、バングラデシュ、ブータンなど周辺諸国のこと。

イギリスは、オランダ海上帝国に対抗し、三角貿易に頼る海上での輸送ルートを妨害するため航海法(1651年)を制定した。

三度の英蘭戦争ではイギリスは有利に戦ったものの、宗教上・政治上の利益を優先したため、目的であったオランダの海上貿易では譲歩したため、香辛料という当時のヨーロッパで最も珍重されていた商品を失うこととなった。

イギリスは香辛料に変わり、硝石紅茶、綿織物製品をヨーロッパに輸出した。

1657年オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。これにより、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に、株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった

輸出額は1670年には、36万ポンドだったものが、1740年には、200万ポンドに到達していた。

ただし、営業資本となる資金が集まり、輸出額が増加し規模が拡大すると、現地職員が私腹を肥やすための密貿や浪費が横行して経営状態は悪化していた。

1688年の名誉革命により、ジェームズ2世が失脚すると、新しく国王となったウィリアム3世の命により、1698年9月には、「東インドと貿易をする英国のカンパニー」(東インド貿易商合同会社)が設立され、旧会社に付与されていた特権は、3年後に失効する形となった。

その後、旧東インド会社の経営状況が改善され、1709年、新旧両会社は合併された(新イギリス東インド会社)


新東インド会社(1709年〜)

18世紀になると、ムガル帝国の衰退が顕著となった。

フランス東インド会社の台頭が目立つようになった。そこで大幅な増資を行い、現在の株式会社に近い運営が行われた。

営業資本は、旧東インド会社が74万4000ポンド、新東インド会社は当初200万ポンドから増資によって320万ポンドとなり、さらに100万ポンドの社債も発行した。

ピーク時には、同社は世界最大の企業であり、3つの総督軍の形で独自の軍隊を持ち、合計約26万人の兵士で、当時のイギリス軍の2倍の規模をもっていた。

また、軍事力を行使し、行政機能を引き受けるようになった。

大拠点はベンガルカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。

ヨーロッパオーストリア継承戦争が勃発すると、フランス東インド会社、イギリス東インド会社ともに、軍事的に強化されていった。

インド亜大陸でも三度にわたって、それぞれの会社の軍が衝突することとなった(カーナティック戦争)。

イギリスは大規模な軍艦建造計画の結果、フランスの約50隻に対して、イギリスは約350隻の艦隊を派遣した。

1757年プラッシーの戦い1760年1月22日ヴァンディヴァッシュの戦いでフランス軍に決定的な勝利をおさめ、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破しインドの覇権を確立した。

しかし、イギリスは事実上、インド亜大陸における植民地の領主となり、豊かな税収を得るはずだったが、その数年後には、東インド会社は財政危機に直面することとなった。

まず、イギリス東インド会社株は本国での投機の対象となって、配当金を引き上げざるをえなくなり、7から8%程度であったものが、1771年には12.5%まで引き上げられた。

商事会社の職員が広大なインド亜大陸を統治することは、従来の会社運営のシステムでは限界があった。

主要な居留地であるマドラス、ボンベイ、カルカッタの3州は、個々に管理されていたが、経営規模が拡大し監督する地域が分散すれば、現地職員の大掛かりな不正や浪費を見抜くことは困難になっていた。

本国の株主は現地職員の不正の分け前にあずかれるわけではないが、巨額の収益の一部でも会社と利害が対立する現地勢力の手にわたるより、現地職員の利益になる方がまだましといえるかもしれない。株主として取締役や総督など現地職員の指名にあたって発言権を確保して、親戚や友人など現地職員の既得権を擁護する勢力が過半数となって、不正行為の中心人物を総会が支持することもありえた。


ウォーレン・ヘースティングズ以降の改革

1772年ウォーレン・ヘースティングズが東インド会社の取締役会の決定に基づき、初代ベンガル総督に就任した。

1773年、イギリス東インド会社には巨額の収入があったにもかかわらず、同社の債務は減るどころか増えており、国庫への40万ポンドの支払いが遅延し、税関への関税支払いも遅れ、イングランド銀行からの借入が巨額にのぼり、そのうえ、同社を支払人としてインドで振り出され引き受けた為替手形が120万ポンドにのぼっていた。

イギリス政府は、ヘースティングスを総督に就任させ、東インド会社はイギリス政府の管理下におかれ、行政業務を義務付けた。1783年には、閣僚の1人を責任者とする監督局が設置された。

へースティングは、徴税のみならず行政や司法も同様に直接行使することにし、これにより3州は間接統治から直接統治へと移行されることとなった。

ヘースティングズは、「われわれが目指すべきインド統治の方針は、できる限り古代インド以来のインドの習慣と制度に従いつつ、われわれの法律をインド人の生活、社会、国家の諸問題に適用すること」と述べている。法体系整備のためにヒンドゥー法典編纂委員会を創設し、膨大な翻訳作業が始まった。このことを契機に、ヒンドゥーとムスリムの区別がインド国内で明確に区別されるようになった。

1793年、第3代総督チャールズ・コーンウォリスは、徴税業務を担っていたインド人を解雇し全員をイギリス人に入れ替えた。そして、高い給料年金の保証、上級職の独占を認めることと引き換えに、私貿易(不正な密貿易)の禁止を行った。

そのあとの総督リチャード・ウェルズリーは、フォート・ウィリアムズ・カレッジの創立(カルカッタ)、イギリス本国でのヘイリーベリー・カレッジを創設し、インドの諸言語と複雑な会計処理を現地業務の前に学習する機会を作り徴税業務が軌道に乗った。


ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。

18世紀以降、中国広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。

しかし、同社による統治の失敗からインド大反乱を引き起こし、会社軍は反乱をようやく鎮圧したものの、インドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散した。

イギリス領インドの公式政府機構は、その政府機能を引き継ぎ、その軍隊を吸収した。



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