三十年戦争

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三十年戦争

https://ja.wikipedia.org/wiki/三十年戦争

https://en.wikipedia.org/wiki/Thirty_Years%27_War

https://www.y-history.net/appendix/wh0904-090.html

1618年から1648年、ヨーロッパ史上最も長く、ドイツの人口の20 %を含む800万人以上の死者を出す最も破壊的な紛争の1つ。

1618年のベーメンの反乱から始り、ドイツのキリスト教新旧両派の宗教内乱から、ヨーロッパの各国が介入、1648年、ウェストファリア条約で講和。

八十年戦争(1568年〜1648年:オランダ独立戦争)、マントヴァ継承戦争(1628年:フランスvsスペイン)、フランス・スペイン戦争(1635年-1659年)、オランダ・ポルトガル戦争(1602–1663)、ポルトガル王政復古戦争(1640年 – 1668年:スペイン・ポルトガルvsオランダ)が含まれます。

当初は旧教徒と新教徒との対立軸であったが、第2段階からスペイン=オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家という国際的な対立軸に転換した。

フランスのブルボン家はカトリック教徒であったが、ヨーロッパのライバルは神聖ローマ帝国(ドイツ・オーストリア)とスペイン(ポルトガル)のハプスブルク家の支配者であったことから、オランダ、デンマーク、スウェーデンの新教徒側で参戦している。

当時のイギリスは大陸国家と比べると小国であったことから、立場をとっていた。スチュアート朝チャールズ一世がフランスの絶対王政に協調し、反スペインの立場をとる。また、スコットランド(ハイランド)、アイルランドのカトリック支配も目指し新教徒側で参戦している。


フェルディナンド2世(神聖ローマ帝国)のカトリック強制

1618年、ベーメン(チェコ)の反乱

旧教徒側にはスペイン、新教徒側にはオランダがただちに支援(スペインとオランダはオランダ独立戦争(1568年から)を継続していた)、1623年、旧教徒側の勝利に終わる。

しかし、神聖ローマ皇帝カトリックの決定的な勝利は長くは続かず、他のプロテスタント諸国が神聖ローマ帝国の同胞国家を守るために参戦した。


デンマークの介入

1625年、デンマーク王クリスチャン4世は、北ドイツへの勢力拡大とバルト海北海の覇権確立を狙っており、イギリス・オランダの資金援助を受けると、新教徒擁護を掲げてドイツに直接介入したが、皇帝側は、デンマーク軍を撃退した。

1630年、スウェーデンは、フランスの資金援助を得て、新教徒擁護、神聖ローマ皇帝の北上阻止を名目に神聖ローマ帝国へ侵入したが、スウェーデンと同盟したドイツ諸侯の多くが皇帝側に寝返ったため、新旧両派の和約が成立した。

複数のスペイン軍は、1620年代後半から1630年代初頭に再開されたスペイン道路に沿って移動し、低地諸国の伝統的な戦場に向かう人もいれば、包囲されたオーストリアのハプスブルク家を支援するために、三十年戦争が現在猛威を振るっているドイツへ移動した。この期間中に道路を使用するスペイン軍の1つは、第一次ネルトリンゲンの戦いを含むドイツで一連の重要な勝利を収めた枢機卿・インファンテ・フェルディナンドの軍隊でした。

イギリスのチャールズ1世(イギリス国教会、宥和派)は、フランスとの協調外交で反ハプスブルクとプファルツ救援を掲げてスペインのカディスに艦隊を派遣したが遠征に失敗、さらに、1627年にフランスに宣戦布告したがフランス・スペインの同盟締結でフランスも敵に回してしまい、チャールズ1世は1629年にフランスと、1630年にスペインと和睦して三十年戦争から手を引いた。このとき、スペインからイングランドへ大量のメキシコ銀が流入した[23]。以後チャールズ1世は財政再建を進めようと専制政治を行い、スペインとの戦費を徴収しようとしたことに反発した議会が権利の請願(1628年)を出している。


マントヴァ公国継承戦争(1628)

フランスとスペインがそれぞれ支持する領主同士の代理戦争

北イタリアにあったマントヴァ公国の跡継ぎが絶えたのにつけこみ、フランスがスペイン・ハプスブルク家の領土であった北部イタリアに間接的に侵攻した。

これらの領土は、ハプスブルクのスペインイタリアからフランダースの軍隊に新兵や物資を移動することを可能にする陸路であるスペイン道路の制御の鍵でした。

スペイン道路

16世紀後半から17世紀初頭にかけての軍事道路と貿易ルートで、ミラノ公国フランシュ・コンテスペイン領オランダを結び、そのすべてが当時ハプスブルク家帝国のスペイン帝国の領土でした


フランス・スペインの介入

フランス・ブルボン家は旧教徒であったが、ドイツとスウェーデンが同盟を結び、神聖ローマ帝国との関係を修復したことに伴いフランスの領土がハプスブルク家側の領土に包囲されてしまったた。

このため、1635年、フランス(ルイ13世)がドイツ新教徒側の劣勢を挽回するため、直接ドイツに進撃。スウェーデンも同調した。

プロテスタント国のデンマークスウェーデンが参戦し、旧教国フランスが新教国スウェーデンを支持するに至り、それに対し、旧教側ではスペイン軍(フランドル軍)も直接介入した。

しかし、1640年にスペインでカタルーニャの反乱が起き、同年にポルトガルも独立して形勢がスペインに不利になった。


フランス・スペイン戦争

1643年〜1648年

ブルボン家 vs ハプスブルグ家

1643年にはフランス北部ロクロワの戦いでフランス軍とスペイン軍が直接交戦、戦況は一進一退で決着がつかなかった。1644年から、講和交渉が始まり、1648年のウェストファリア条約でようやく講和が成立した。
注意 フランスとスペインはなおも戦争を継続しており、両国が講和するのはフランスのフロンドの乱が終わった後の1659年ピレネー条約の締結によってである。


結果(1659年)

神聖ローマ帝国の衰退

戦争の結果、オランダスイスが独立し、ドイツ諸侯も独立性も強化され(領土国家)、神聖ローマ皇帝は名目的存在となり、ハプスブルク家は大打撃を受けた。

フランスの台頭

アルザス地方を獲得したフランスは大陸最強国となり、北ドイツの諸要地を獲得したスウェーデンも強国となった[1]

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