名誉革命
https://ja.wikipedia.org/wiki/名誉革命
https://en.wikipedia.org/wiki/Glorious_Revolution
https://www.y-history.net/appendix/wh1001-070.html
1688年、イギリス議会がジェームズ2世を追放し、オランダからウィレムとメアリを迎え、二人は「権利の宣言」を受けいれて国王となり、さらに「権利の章典」を制定した。これによって議会政治と国教会制度を柱とするイギリスの立憲君主政治が確立した。
議会は権利宣言を同年12月、「権利の章典」として制定、立憲君主制が成立した。
また同年、議会は寛容法を制定して、非国教会のプロテスタントの信仰の自由を認め、国教会とピューリタンの和解を図り、革命前からの宗教対立を終わらせた。ただし、カトリック教徒は寛容の対象とはならず、また審査法は存続しているのでプロテスタントも公職に就くことは出来なかった。
ローランド地方で始まったスコットランドでの宗教改革は、ゲール語圏であるハイランド地方では当初は部分的に成功しただけであった。カトリック教会は、文化的にも民族的にも関係の深いアイルランド系のフランシスコ会伝道師がミサのために定期的にハイランド地方を訪れていたこともあって、ハイランド地方の大部分で勢力を保っていた。ハイランド地方は、しばしば大ブリテン島カトリックの最後の砦といわれ、モイダート、モラール、サウス・ウイスト島、バラ島などに主要拠点があった。ハイランダーの強いカトリシズムはプロテスタントであるイングランド人に対する歴史的な反感へとつながった。これは、ローランド地方のスコットランド人のほとんどがプロテスタントに改宗し、イングランドと連合してグレートブリテン王国を形成するのに積極的だったのとは対照的である。一方、アウター・ヘブリディーズ諸島の一部 (ルイス島やハリス島など) では、スコットランド自由教会やスコットランド長老教会に多数の住民が属していた。