メアリー1世 (チューダー朝#5)
https://ja.wikipedia.org/wiki/メアリー1世_(イングランド女王)
https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England
ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン(カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘)との娘。
父親のヘンリー8世の治世中に始まったイギリスの宗教改革を逆転させる(プロテスタントからローマ・カトリックへ)ための精力的な試みで最もよく知られています。
イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた[2]。
1558年のメアリーの死後、彼女のローマカトリックの再確立は彼女の異母妹で後継者であるエリザベス(エリザベス1世)によって、プロテスタントに再び逆転し、イングランド国教会に戻りました。
即位
病弱のエドワード6世は即位から6年後には、もう回復の見込みがないほど病床に伏す身となっていた。彼が後継者として指名したのは、父ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫で従姪にあたるジェーン・グレイだったが、その背後にはこの直前に自身の子ギルフォードをジェーンと結婚させていた野心家のノーサンバランド公ジョン・ダドリーの暗躍があった。
エドワード6世が1553年7月6日に15歳で夭折すると、枢密院は筋書き通りジェーン・グレイを女王に推戴した。
ノーサンバランド公はメアリーの身柄を拘束しようとしたが、事前に身の危険を察知したメアリーはノーフォーク公トマス・ハワードに匿われ、ロンドンを脱出する。
その間に7月10日にはジェーンがロンドン塔に入城し、その王位継承が公に宣言されたが、一方のメアリーも13日にノリッジで即位を宣言した。
すると、メアリーのもとには支持者が続々と集結し、民衆蜂起となってロンドンに進軍した。これを自ら鎮圧しようと兵を向けたノーサンバランド公は、逆に惨敗を喫してしまう。
これを受けて19日には枢密院も一転メアリー支持を表明、ロンドンに入ったメアリーは改めて即位を宣言した。ノーサンバランド公とその子ギルフォードは、ジェーン・グレイとともに身柄を拘束された。こうしてメアリーは名実共にイングランドの女王となった。
メアリーを支持する民衆がこのように蜂起したのは、ヘンリー8世の遺言では王位継承権がエドワード、メアリー、エリザベスの順にあったのにもかかわらず、これを継いだエドワード6世の遺言ではこの異母姉2人を差し置いて、プロテスタントであるという理由で従姪のジェーンが後継者に指名されていたことから、それがエドワード6世の真意であることを疑い、ジェーンがノーサンバランド公の傀儡になることを危惧したためといわれている。エドワード6世の遺言の真偽は別として、少なくともそれを理由に民衆の蜂起を煽ったメアリーの作戦勝ちだった。そして彼女は「イングランドで初めて広く国民に支持された女王」になったのである。
宗教政策
敬虔なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、イングランドはローマ教皇を中心とするカトリック世界に復帰した[4]。メアリーはプロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれた
メアリー1世は宗教改革に逆行してカトリックへの復帰を目指し、その過程で多くのプロテスタントを処刑したことが非難されてきた。しかし宗教改革はエドワード6世時代には一般社会には浸透せず、イングランドの実質的なプロテスタント化はエリザベス1世時代以後に進んでいったものと考えられる。
スペイン王フェリペ2世と結婚
メアリーは幾多の反対を押し切り、1554年7月20日に11歳年下のフェリペと結婚した。
スペインのフィリップ王子と結婚により、1556年の即位時にハプスブルク家の王妃になりました。
フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられたが、1556年にスペイン王として即位するため本国に帰国、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3か月後には再びスペインに帰国し、以後二度とメアリーに会うことはなかった。
スペイン王との結婚によって、イングランドはフランスとスペインの戦争(第六次イタリア戦争)に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うことになった(カレー包囲戦)。
悪いことづくめに終わったフェリペとの結婚の果てに、メアリーは自らの健康も害してその崩御の時期を悟るようになった。
後継者は異母妹エリザベス(プロテスタント)以外にいなかったが、母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリーはエリザベスのことを終生憎み続けており、崩御の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだった。