王政復古(イングランド)
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王政復古期
清教徒革命(三王国戦争)(1639年から1653年)に続く空位期間後にイングランド、スコットランド、アイルランドの王家がチャールズ2世のもとで復古した1660年に始まったチャールズ2世の在位期間(1660年 – 1685年)。
文脈によってはアン女王が死去してステュアート朝が断絶し、ジョージ1世が即位してハノーヴァー朝が始まる1714年まで、つまり後期ステュアート朝時代全てを指すこともある。
ジョージ・マンク (初代アルベマール公)
1608年12月6日 – 1670年1月3日、イングランドの軍人
イングランド共和国末期の混乱を収拾して王政復古を実現させた功によりアルベマール公 (貴族)に叙された。
ニューモデル軍時代
1641年アイルランド、カトリック教徒がプロテスタントのイングランド人入植者数千人を殺害した反乱の後、王立軍の募集に参加しアイルランド抑圧に関与した。モンクはカトリック教徒にした譲歩(アイルランド・カトリック同盟)したチャールズ一世に忠誠を誓うことを拒否、1644年1月にナントウィッチで捕らえられる前に王党派を支援することに同意した。
第一次イングランド内戦では王党派に属したが、議会派敗れたためロンドン塔へ投獄、軍事能力を評価され2年後の1646年に釈放、議会派へ鞍替え、ニューモデル軍に属した。
1650年にオリバー・クロムウェルに従いスコットランドへ遠征、第三次イングランド内戦におけるダンバーの戦いでジョン・ランバート・チャールズ・フリートウッドらと連携、1651年のウスターの戦いでスコットランドを平定した(アングロ・スコットランド戦争)。
1652年に第一次英蘭戦争ではオランダ海軍に立ち向かい、1654年にウェストミンスター条約を締結、オランダに対してイングランドが優位に立った。戦後はスコットランドに戻り総督として駐屯を続けた。
1653年、クロムウェルが護国卿に就任すると、スコットランド代表として政権に加わった。
1655年から1660年までスコットランドの陸軍司令官であり、君主制を回復したい議会の穏健派の支持を得た。
オリバークロムウェル死後
1659年、モンクは息子のリチャードに支援を移し、モンクと第三議会は王党派と穏健な長老派によってニューモデル軍の権力と費用を減らした。
同年、クロムウェルの部下ジョン・ランバートがクーデターでランプ議会を解散させて軍事政権を樹立した。この間、スコットランドに留まっていたマンクは大陸に亡命中の王党派(秘密の王党派協会)と連絡を取り、スコットランドから南下して議会の召集を要求して12月に復活させた。
1660年1月、スコットランドとイングランドの国境線であるツイード川を越えてイングランドに進出、支持を失ったランバートを捕らえてロンドン塔へ投獄、2月にロンドンへ入った。
同年4月にオランダのチャールズ2世のブレダ宣言を成立させ、王党派も復帰した仮議会が成立、5月の王政復古宣言を見届け、バルト海に派遣していた艦隊司令官モンタギューの艦隊に乗ってイングランドへ帰国したチャールズ2世を出迎えて、大きな混乱も無く王政復古を実現させた。