フランス革命#5
左派ブルジョアジー政権の成立
1792年8月10日の事件で国民公会が招集されジロンド派政権が再び成立した。
この政権は上層ブルジョアジーの党派だが、旧体制の特権に関わり合いを持つことが少なかった者達の政権だった。彼らは領主権の無償廃止に積極的だった。
ジロンド派はジロンド派の2倍の勢力があった平原派と呼ばれる国民公会の上層ブルジョアジーの中間層と連合して政権運営をした。
階層的封建制の崩壊
フイヤン派の打倒によりこの政権が封建領主権の無償廃止を実現した。
この結果、領主の直轄地はそのまま旧領主の所有地として残り、新時代の貴族の大土地所有地として残り、大・中・小の保有地は領主権から解放されて近代的所有地となり、それぞれ大・中・小の土地所有者となった。もともと土地を保有していなかった農民には土地は与えられなかった。
保守派の既得権益はこの、階層的封建制度がもたらす大領主(貴族)の領主としての権限と地代収入だったんだろう。
とはいえ、この左派政権は都市部の上層ブルジョアジーが中心。前回の失政した反省からか、中間層ブルジョアジーも巻き込むことによって政権を実現している。
農民に土地は与えれなかったところが、所詮はブルジョアジー(資本家)主導の市民革命。
ブルジョア傭兵・義勇軍
保守派を追い出しても、左派政権が始めたフランス革命戦争は続いている。
前回は、やる気のない貴族の指揮官と常備軍で戦って敗北続きだったが、今回は市民の子弟、マルセイユ義勇軍をうまく使っている。
義勇兵は前線に向けて出発した。義勇兵は連盟兵と呼ばれフランス各地から集まってきた者で、自費か誰かの費用で武装していたブルジョアの子弟だった。貧しい階層はブルジョアの費用で武装した「ブルジョアの傭兵」だった。
特にマルセイユ連盟兵は裕福な家庭の子弟だった。義勇兵の出撃と並行して軍需物資と食料の強制徴発が立法議会によって行われ、義勇兵の装備が強化された。
1792年9月20日義勇兵とプロシア軍はヴァルミーの丘で出会った(ヴァルミーの戦い)。義勇軍は重大な戦闘なしにプロシア軍を国境から追い出すことができた。9月から10月にかけて義勇軍はドイツ領深く侵入して重要都市を破竹の勢いで占領した。10月の末にオーストリア軍とフランス革命軍の激戦が行われオーストリア軍に大打撃を与えた(ジェマップの戦い)。
王政の廃止・処刑(第一共和政)
ヴァルミーの会戦と同じ日にパリでは国民公会が招集された。ジャコバンクラブは議会外団体としてジロンド派と山岳派の両議員が含まれていたが、内紛によって山岳派だけの支持団体になった。9月21日に王政の廃止と共和制の樹立を宣言した。(フランス第一共和政)
ここから、ルイ十六世の処遇を決めるわけだが、共和制に君主は不要ななのか、なぜ共和制を選んだのか、古代ローマの共和政とは何が違うのか。
国民公会では国王の裁判が進み長い討論と一人一人の議員の指名点呼による評決を行い小差でルイ16世の無条件死刑が決定された。ルイ16世は1793年1月21日にギロチンにかけられた。
しかし、保守派に対して、このような極端な社会変革の政権への影響は大きいと思う。