百年戦争
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-037.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/百年戦争
1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指す(断続的なもので、休戦の時期もあった)。
フランス王国の王位継承およびイングランド王家(アンジュ帝国)がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。
王家間、領主間の戦争であり、国家間の戦争ではない。
ただし、現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。
両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。フランス側はジェノヴァ共和国に、イングランド側はヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。
背景
イングランド王国
1154年10月25日にスティーブンがドーバーで死去した後、協定に従いアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、プランタジネット朝(アンジュ帝国)が成立、イングランドの無政府状態は終結した。
しかし、この海をまたがる広大な「アンジュ帝国」は、ヘンリー2世がカペー朝フランス王の臣下アンジュ伯として各爵位とそれにともなうそれぞれの封土を所有しているだけであり、ヘンリー2世の死後は「帝国」は再び分離し始めることとなった。
この長きにわたる王朝は、アンジュー朝、ランカスター朝、ヨーク朝の3期に分けられる。
フランス王国
フランス王国カペー朝フィリップ2世(尊厳王)(在位1180~1223年)は、イングランド王リチャード1世の死後、後を継いだジョン王が暗愚なのを見てノルマンディーやアンジューを奪うことに成功した(アンジュー朝断絶)。
一時はロンドンまでを支配するなど、領土を大きく拡大した。また、内政においても大学の設置や人材登用など、パリの発展に尽くすなどして、その後におけるフランス王国の基礎を作り上げた。
1202年にフィリップ2世はジョン王の再婚問題でジョン王を法廷に呼び出した。イングランド王はフランス領においてフランス王の封建臣下であるが、これまで法廷に呼び出されたことはないためジョンは拒絶したため、フランスのノルマンディ侵攻(1202〜1204)が勃発、度重なる愚策のためフランスの諸侯はジョンを見限り、ブルターニュを始めとしてノルマンディー、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥーはほとんど抵抗せずにフィリップ2世に降伏した。
このような12世紀からの東フランク王国に並ぶ王権の強化はカペーの奇跡と呼ばれる。
対立の内容
王位継承問題
フランス王国のカペー家の王位が断絶した際、ヴァロワ家のフィリップが立ったのに対し、カペー家出身の母をもつイングランド王エドワード3世が王位継承を主張した。これは開戦の口実という意味が強い。
ヴァロワ朝初代のフランス王(在位:1328年 – 1350年)。フィリップ3世の四男ヴァロワ伯シャルルと最初の妃マルグリット・ダンジューの子。カペー朝フィリップ4世の男系男子が途絶えたため、フィリップ3世の男系の孫として、貴族と聖職者の会議でフィリップが選ばれて1328年にフランス王に即位した。
フランス王家として以後7代の国王が続いた。最後のシャルル8世が1498年に嗣子を残さず没してヴァロワ家嫡系は断絶した。
イングランド王エドワード2世とその王妃でフランス王フィリップ4世の娘であるイザベラの間の長男。1337年にフランス王フィリップ六世がイングランド王のアキテーヌ公領を没収したのに対抗して母の血筋を根拠にフランス王位を請求してフィリップ6世に宣戦布告したことが百年戦争の始期と見なされる。
領地問題
ギュイエンヌ問題
イングランド領となっていてぶどう酒の産地として重要なギエンヌ地方をフランス王が奪回しようとした。
フランドル問題
イングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心。
エドワード3世は1336年にフランスへの羊毛輸出の禁止に踏み切った。
フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。
スコットランド問題
1329年にロバート一世が死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世はフランスに亡命、エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フィリップ六世はこれを拒否した。
イングランド王国・ランカスター朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/ランカスター朝
1375年に休戦が合意された後、1381年5月には、 イングランド・プランタジネット朝(アンジュ朝最後の王)リチャード2世とシャルル5世の長男シャルル6世とのアミアン会議の後、1396年3月11日にはパリにおいて、1426年までの全面休戦協定が結ばれた。
1399年9月29日にはリチャード2世は訴追派貴族による非情議会において退位を迫られ、ロンドン塔に幽閉された。翌日、リチャード2世の従弟でランカスター公の息子・ダービー伯がイングランド王ヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が成立した。
フランスの内乱
1400年代に入り、シャルル6世が脳神経疾患が昂じ、その弟オルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力を競い合った。
1407年、ブルゴーニュ公がルイを暗殺したため、「ブルゴーニュ派」(東部・北部が基盤)と「オルレアン・アルマニャック派」(西部・南部が基盤)の内乱となり、ともにイングランド王軍に援軍を求めるなど、フランス王国の内政は混乱を極めた。
1413年3月21日、ヘンリー4世の死去によって即位したヘンリー5世は、1414年5月23日にブルゴーニュ派と同盟を結び、12月にはフランス王国にアキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言したが、フランスはこれを拒否した。
1415年にヘンリー5世はフランスへの侵攻を開始、シャルル6世は、1420年5月21日に調印したトロワ条約で、娘婿であるイングランド国王ヘンリー5世とその子孫にフランス王位を与えることを取り決めた。
1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで亡くなると、イングランドとブルゴーニュ派は幼少のヘンリ6世(ヘンリ6世とシャルル6世の娘の間の子)を英仏両国の王として即位させた。それに対抗してオルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の子のシャルル王太子をシャルル7世として即位させた。これによってフランス王位は分裂したこととなる。(イングランド・フランス二重王国)
ジャンヌ・ダルク、フランスの反撃
1429年2月にシャルル7世とシノン城で少女ジャンヌ=ダルクと面会、神のお告げがあったとして、シャルルは軍を起こしジャンヌがその指揮、オルレアンの解放に成功し、イングランド優勢だった戦況の風向きが変わり始めた。
シャルル7世は1435年にブルゴーニュ派とアラスの和約で講和し、トロワ条約の無効も宣言、それによってブルゴーニュ派とイングランドの同盟は破棄されフランスは一致して反撃に転じた。
終結
1436年4月13日、パリの城門が開かれてフランス軍が入城する。
1439年、オルレアンで召集された三部会において、フランス王国は軍の編成と課税の決定を行い、1445年には常設軍である「勅令隊」が設立された。貴族は予備軍として登録され、平民からは各教会区について一定の徴兵が行われ、訓練・軍役と引き換えに租税が免除されたため、自由(franc)という名前の付いた「自由射手隊(francs archers)」が組織されている。戦術面では大砲を活用し始めた。
1449年、これら一連の軍備編成を行うと、シャルル7世はノルマンディーを支配するイングランド軍討伐の軍隊を派遣、1450年にはノルマンディを奪回し、1453年にはイギリス領のギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領した。
これによってカレーを除いてほぼフランス本土からイギリス支配地はなくなり、百年戦争は終結した。
ただし、1558年まで港町のカレーだけはイングランド領であったほか、21世紀に入ってもかつてのノルマンディー公国の一部であるチャンネル諸島はイギリスの王室属領である