プランタジネット朝(アンジュー帝国)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンジュー帝国
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-001_1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/イングランド君主一覧
プランタジネット家(アンジュー家)によって統治された領域の通称。
アンジュー家はフランスのアンジュー地方の大領主。
アンジュー家の家紋が「えにしだ」でそのラテン名が「プランタ=ゲニスタ」というので、後の人がこの王朝を「プランタジネット朝」と呼んだ。
無政府時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/無政府時代_(イングランド)
1135年、イングランド王国のノルマン朝が断絶したのに伴って後継者争いで内乱が発生したブロワ朝、スティーブン王の治世(1135年 – 1154年)を指す。
イングランド王ノルマン朝・ヘンリー1世には、20人を超える庶子がいたが、唯一の嫡子である娘のマティルダを1127年を後継者に指名して、立場を強化するために有力フランス貴族のアンジュー伯ジョフロワ4世と再婚させた。
1135年にヘンリー1世が死ぬと、ブロワ家のエティエンヌが、自らを後継者に指名したと主張し、女性相続人を認めないフランク王国のサリカ法も利用してイングランド王国を掌握し、イングランド王スティーブンとなった。
アンジュ伯はイングランド王の男系の血筋は引いていないが、「サリカ法」は厳密には「女性」「女系」による相続を禁止していない。
イングランド及びノルマンディー諸侯は、イングランド初の女王に対する抵抗感と、ノルマンディーの代々の宿敵であるアンジュー伯に対する警戒心から、スティーブンの即位を支持した。
1153年、スティーブンの嫡男が急死、気力を失ったスティーブンは、マティルダの息子アンリと和平協定(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)を結び、自身の王位の承認と引き換えにアンリを王位継承者とした。
プランタジネット朝(アンジュ朝)の成立
1154年10月25日にスティーブンがドーバーで死去した後、協定に従いアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、イングランドで初めて女系による王位継承、プランタジネット朝が成立した。
これによってアンジュー伯ヘンリ2世はイングランドとノルマンディーを獲得、カペー朝のフランス王の臣下でありながら国王をしのぐ強大な勢力を持つ「アンジュー帝国」とも呼ばれるようになった。
しかし、この「帝国」はヘンリー2世が、フランス王の臣下アンジュ伯として各爵位とそれにともなうそれぞれの封土を所有しているだけであり、そのため、ヘンリー2世の死後は「帝国」は再び分離し始めることとなった。
ノルマン・コンクエスト以来、歴代イングランド王は同時にノルマンディー公を兼ねていることが多かったので、有力諸侯がひしめくヨーロッパ大陸の領土を巡回するため長くフランスに滞在し、イングランドに滞在することは少なかった。ヘンリー2世もその例にたがわずフランスに居住していることが多く、ノルマンディーのルーアンが実質的な首都だった。
イングランド・プランタジネット朝(アンジュー帝国)はジョン王の時代に、フランス国王フィリップ2世との抗争に敗れたことにより、アンジュー、ノルマンディー等のヨーロッパ大陸の領土の大半を喪失した(アンジュ帝国の崩壊)。この敗北によって、プランタジネット家が大陸に保有する領土はガスコーニュのみとなり、百年戦争の遠因となった。
プランタジネット朝とアンジュー朝
プランタジネット朝(アンジュー朝)は、1399年にリチャード2世が貴族層の非情議会によって王位から追放・幽閉されたときにプランタジネット朝(アンジュー朝)は断絶したとされるのが一般的である。
ただし、その後に続くランカスター朝、ヨーク朝ともプランタジネット家の男系の傍系であるため、広義ではプランタジネット朝に含まれる。
この場合はヨーク朝のリチャード3世が最後のプランタジネット朝の王となる。
ヨーク朝を滅ぼして王位を得たテューダー朝およびその後のすべての王朝は、女系でプランタジネット家の血を引いている。
また、アンジュー伯家から興ったことから、ジョンが1204年、フランス王国カペー朝フィリップ二世によって、アンジュー地方を失うまでのアンジュ帝国をアンジュー朝(Angevin Dynasty)ということもある。