アレクサンドル・グラズノフ

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アレクサンドル・グラズノフ

 1865年8月10日 – 1936年3月21日)は、ロシア帝国末期およびソビエト連邦建国期の作曲家・音楽教師・指揮者ペテルブルク音楽院の院長を1906年から1917年にかけて務め、ペトログラード音楽院およびロシア革命後のレニングラード音楽院への改組を担った。グラズノフは、ロシア楽壇における民族主義(ペテルブルク楽派)と国際主義(モスクワ楽派)を巧みに融和させた重要人物である。

リムスキー=コルサコフは、自分はグラズノフの個人教師であると考えていた[3]。「彼の音楽的な成長は、日ごとにではなく、文字通り時間ごとに進んだ[3]」とリムスキー=コルサコフは記している。二人の関係も変化した。1881年の春までに、リムスキー=コルサコフはグラズノフを門弟としてでなく、年少の同僚と看做すようになった[4]。このような発展は、リムスキー=コルサコフの側で、同年春に他界したムソルグスキーの精神的な代わりを見つけなければならないという念願から起こったのかもしれない

グラズノフは1888年に指揮者デビューを果たしている。その翌年には、パリ万博で自作の《交響曲 第2番》を指揮した[13]1896年にロシア交響楽協会の指揮者に任命されてもいる。1897年には、ラフマニノフの《交響曲 第1番》の悲惨な初演を指揮した。後にラフマニノフ未亡人は、その時グラズノフは顔が真っ赤で酔っているように見えたという。この申し立てを肯定することはできないものの、ショスタコーヴィチ曰く「机にアルコール1瓶を忍ばせておいて、講義の合間にちびりちびりと飲み干してしまう」ような男には、あながち無い話でもなさそうだ

ショスタコーヴィチは、グラズノフには変わったところや可笑しいところが多々あったが、それでもグラズノフが進んで自分の時間や心の平穏、そして創造力を、音楽院のために犠牲にしたと認めている。グラズノフは実際に一日中音楽院に詰めており、苦学生の暮らし向きに父性的な関心を示した。毎年学期末になると、何百人もの学生を個人的に試問して、その人物像や適正な評価を記した推薦状を無数に作成した[13]。困窮した学生に、同情心から巨額の収入を分け与え、時には政府に掛け合って、学生の置かれた立場を訴えた。1922年にソ連政府は、グラズノフの創作活動を容易にするような、その業績に見合う生活条件を決定した。グラズノフは、すでにげっそりと痩せ細り、当時の多くのソ連国民と同じように困難な生活を過ごしていたにもかかわらず、そんなことより音楽院に焚き木を送り、多くの学生が校内でもっと快適に学習できるようにしてほしいと要望した。すると薪が運び込まれたという

革命前に、何人のユダヤ人が入学したかを問われて、グラズノフは「ここではそんな数は数えていない」と答えを返した[18]。ユダヤ人の音楽家は、自分たちがペトログラードに住めるようにグラズノフが当局者に会って許可をもらっていたことを知っていた。グラズノフのおかげで、ヤッシャ・ハイフェッツナタン・ミルシテインミッシャ・エルマンらは上京して学習することが出来たのである[19]。ショスタコーヴィチは、グラズノフがユダヤ人音楽家に見返りを求めたりはしなかったと述べている。誰にも自分の好きな土地に住む権利があれば、芸術が廃れることも無い筈だと感じていたからである。

グラズノフはヨーロッパとアメリカ合衆国を巡り、パリに定住した。ロシアを不在にしているのは、(亡命ではなく)「体調不良」のせいだと言い張っていたので、それ以外の理由で国を棄てたラフマニノフストラヴィンスキーとは違い、ソ連における尊厳を失わずに済んだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンドル・グラズノフ